2022年10月7日 第671号
弘法大師(こうぼうだいし)こと空海(くうかい)は、平安時代初期の高僧です。当時の中国の王朝だった「唐(とう)」へ遣唐使(けんとうし)の一員として派遣され、帰国後に日本仏教の一つである「真言宗(しんごんしゅう)」をはじめました。有名な聖地「高野山(こうやさん)」では、金剛峯寺(こんごうぶじ)の奥之院御廟で永遠の瞑想入りした弘法大師(空海)のために、今なお食事や着替えが運ばれているそうです。幅広い知力や学問を備えていたとされる弘法大師(空海)は、全国各地にさまざまな伝承を残しています。四国八十八ヶ所霊場など、松戸にも弘法大師(空海)ゆかりの地がいくつもあります。
【弘法大師、遣唐使になる】
弘法大師こと空海は、幼い頃の名を「真魚(まお)」といいました。真魚の生まれた佐伯家は名門であり、すぐれた人材が多く輩出されていました。
真魚も例にもれず、幼い頃から普通の子供ではなかったようです。そのふるまいなどから土地の人は神童と呼ぶようになり、身びいきもあったかもしれませんが両親も「貴物(とふともの)」として大切に育てたと伝えられます。
当時の仏教は、教育や内政、芸術のみならず、外交や国防にも影響を与えるような存在でした。仏道は民間でも盛んで、その生活や行動、ものの見方も左右するようになっていました。真魚の両親も仏教をよりどころにしていたことから、真魚も幼い頃から仏教への関心が人一倍あったようです。
真魚はそのための学問を望みましたが、桓武(かんむ)天皇が奈良から長岡への遷都を行ったばかりであり、新たな都に学び舎が整っていなかったことから、十八歳になるまで、地元の国学や、長岡の叔父のもとで進学の準備に励むことになりました。
ただ、平安時代の大学は、国家の役人を養成することが主な目的でした。大学には入ったものの、そこで学ぶ儒書などは、真魚を満足させるものではありませんでした。波乱の多い一生を送った、同じ佐伯一門の佐伯今毛人(さえきのいまえみし)の死も、役人としての出世に疑問を抱かせました。この佐伯今毛人は、のちに「空海」として出家させる「剃髪の師」となる勤操大徳(ごんそうだいとく)と、十六歳の真魚を引き合わせた人物ともされます。
十九歳の晩春、とうとう真魚は大学を去り、仏道修行をはじめます。その数年後、大安寺の学僧・空海として、さきの勤操大徳の門下となり、仏典の研究を深めていきます。
勤操大徳のもとで、さまざまな経典に触れる機会を得た空海でしたが、悟りの道をより求めるべく、遣唐使として中国に渡り、しかるべき師の指導を受けようと考えます。もちろんこれは容易なことではなく、ようやく遣唐使の一員となれたのは、空海が三十一歳のときでした。
【弘法大師、高野山を開創する】
もっとも遣唐使になったからといって、必ず中国に行けるとは限りませんでした。四~五百名からなる遣唐使は四つの船に分乗して中国へ向かいますが、当時は「生きて帰る者、三人」と言われるほどの危険な航海でした。実際、中国にたどり着いたのは第一船と第二船のみで、第三船と第四船は行方知れずとなりました。空海の乗った第一船も、予定の航路を大きく外れ、陸路を経て、ようやく空海が長安に到着したときには、日本を発ってから実に半年近くがたっていました。
しかし、幸運にも、唐で唯一無二の名僧である恵果和尚(けいかかしょう)に師事できました。恵果和尚は空海にすべてを授けると、帰国をうながすととともに、蒼生(民)の福を増すようにとの遺命を残して亡くなります。くしくも別の遣唐使が来ていたことから、空海はその船に乗って帰国することにします。
日本に戻った空海は、持ち帰った唐風文化を通じて天皇との親交を深め、かねてより修行の地として最適と考えていた高野山を開創する許可を得ます。当時の高野山は、人の手の加わっていないまさに大森林でしたが、都から遠かったので、弟子たちの散心の気がかりがありませんでした。そうした場所に空海は道場を作りたかったのです。
そして、その高野山を、空海は永遠の瞑想入りのための入定(にゅうじょう)の地と決めます。実は、「弘法大師」の名は、入定から八十年あまり経ってから、天皇より贈られたものです。古くなった法衣の着替えを求めた空海が夢枕に立ったので、新しい法衣とともに、「弘法大師」の諡号(しごう)を高野山に届けたとされます。
松戸には、弘法大師が開山したと伝えられる「浮ケ谷山通源寺」がありました。現在は日蓮宗に転じて「頂昌山本法寺」となっています。かつて稔台の付近にあった同寺は、国府台合戦の際に北条軍に焼かれ、現在の和名ケ谷で再建されました。
流山には、弘法大師開山の「守竜山証明院東福寺」があります。竜王から捧げられた竜宮の霊仏像に弘法大師が刀を加え、東福寺の本尊となる薬師如来像にしたとされ、このときに元の海竜像の背びれの先が少し残ったことから、周辺の鰭ヶ崎(ひれがさき)という地名が生まれたと伝えられています。
【弘法大師、伝説になる】
弘法大師については、東福寺のような伝説が、全国各地にたくさん残っています。その代表的なものが、今も高野山の奥之院で瞑想しているというものです。「弘法大師」の名とともに新しい法衣が高野山に届けられたときには、弘法大師は座禅を続けていて、頭髪やひげを整えたあと、僧正は扉を再び閉じたと伝えられます。
遍路巡拝いわゆる「お遍路さん」にも言い伝えがあります。修行僧として四国を巡っていた空海に対して非礼だった地元の長者が、それを謝罪するためにあとを追って四国を巡拝したのが始まりとされています。
松戸駅近くの松戸市役所側の「根本」と、その右隣の地域の「小根本」は、かつて一つの村だったといいます。その村を訪れた弘法大師は、「かくれ座頭」と呼ばれるところにこもり、一本の樹木から三つの薬師如来像を彫り出したと伝えられます。「かくれ座頭」は、現在の金山神社の付近にあったとされ、彫り出された三体のうち、木の根元で刻まれた薬師如来像は、吉祥寺に安置されました。そこからその地が「根本」と呼ばれるようになったと言われます。吉祥寺は、弘法大師の建立した寺とも伝えられます。
残り二体のうち、木の中ほどで刻まれた薬師如来像は、東照院の本尊になり、その村はそこから「中根」と呼ばれるようになったそうです。その後、東照院は馬橋に移転して、「中根寺」と改められました。
木の先のほう、すなわち木の末(うれ)で刻まれた薬師如来像は、印西市浦部の薬師堂の本尊となったそうです。「浦」は「末」に通ずるそうです。
市川市にある里見公園脇の「羅漢の井」にも、弘法大師が錫杖で水を出したという「弘法清水」の伝説があります。 (かつ)
※参考図書「弘法大師伝」「弘法大師空海と出会う」「松戸の寺 松戸の町名の由来 松戸の昔ばなし」「楽しい東葛地名事典」
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