医王寺(松戸市中金杉)
2023年11月17日号 第698号
天草四郎で知られる「島原の乱」が終息した頃、奇しくも九州を発端とした牛疫が西日本まで拡大して牛の大量死をもたらしました。二年後には北海道駒ヶ岳の噴火が起こり、その翌年には全国的な異常気象となって、江戸時代初期においての最大の飢饉と言われる「寛永の大飢饉」につながりました。
もしかすると、その頃だったのかもしれませんが、金杉村に疫病が広がりました。
それは、とてもひどい状況だったようで、そのことを知った一人の法師が、背負箱(笈)の不動明王の供として訪れて、村人の快癒を祈りました。それにより病が消えたことから、村人は不動明王を崇敬するようになり、御持仏として安置させていただくことになりました。これが、医王寺の前身です。
くだんの法師は、はるばる越後(新潟)の菅谷寺からやって来ていました。かつての平治の乱において、本尊である不動明王を背負って守り抜いた菅谷寺は、のちに北の比叡山と呼ばれるほど発展しました。その御利益を分けようと、本尊の分身としての少し小さな不動明王を法師に背負わせて、全国各地を巡らせていたのです。
その不動明王が医王寺の本尊となりました。現在は、本堂の手前に毘沙門天も祀られており、松戸七福神の一寺となっています。 (かつ)
※参考図書/「松戸の寺 松戸の町名の由来 松戸の昔ばなし」「小金地域の歴史」
◎所在地/松戸市中金杉4・189
◎所在地/松戸市中金杉4・189
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