2024年8月2日 第715号
徳川幕府を開いた家康は、鷹狩りを好んで行いました。しかし、第五代将軍である徳川綱吉がそれを廃止してから、しばらくは将軍による狩りは行われませんでした。
それを再開したのが、第八代将軍となった徳川吉宗です。就任間もなくの鷹狩りを手始めに、武蔵国駒場野(東京都目黒区)での猪狩りを経て、より組織的な鹿狩りを松戸の小金原で実施しました。
小金原で行われた四度の鹿狩り
現在の小金原は松戸の一地域に過ぎませんが、かつての小金原は柏や流山、松戸、沼南、鎌ケ谷、市川、船橋、習志野、八千代にも及ぶ広大な原野のことでした。もともとは戦国時代の小金城主であった高城氏の支配地であった小金野が、江戸時代になって小金原と呼ばれるようになったのです。
小金原が将軍主導の鹿狩りの場として選ばれた最大の理由は、江戸から日帰りできる近さにあります。また、幕府の直轄地であり、害獣である鹿や猪が農作物を荒らしていた事実がありました。鹿狩りとは、鹿と猪を狩る「ししがり」であり、その舞台として小金原は最適の地だったのです。この小金原での御鹿狩り(おししがり)は、第八代将軍の徳川吉宗の治世に二度、続けて行われました。その後、第十一代将軍の徳川家斉と、次の第十二代将軍の徳川家慶が、それぞれ一度ずつ実施しています。
幕府の意向を受けた綿貫夏右衛門らが計画立案
当時の小金原では、年に一度、いわゆる野馬捕りが行われていました。江戸幕府は当初から馬の重要性を認識しており、小金原で野生の馬を放牧・管理していました。そこで捕らえられた三歳の牡馬は幕府に献上され、牝馬は農民に払い下げられていました。
この野馬の管理を任されていたのが、小金町の綿貫夏右衛門で、小金佐倉野馬奉行兼牧士支配という職名を与えられ、十一代にわたり野馬管理者を務めました。
徳川吉宗による鹿狩りの話は、小金野馬奉行の綿貫夏右衛門や牧士たちに伝えられ、獲物となる鹿や猪を小金原へと追い込む計画などが立案されました。
この御鹿狩りにおいて、獲物を追い出したり、逃げ出さないように防いだりする役目の勢子には、近在の四百を超える村から、総勢一万五千人ほどが駆り出されたそうです。幕府側では三千人程度を見込んでいたようですが、野馬捕り経験者の綿貫夏右衛門らの要望で大幅な増員となりました。実際、獲物を包囲して逃げられないようにし、狩猟者が安全かつ確実に獲物を仕留められるようにするには、一キロメートルにも及ぶ長壁が必要だったので、それだけの勢子が必要でした。
三人の将軍が指揮を取った「御立場」
御鹿狩りの際、将軍は「御立場(おたつば)」という特別に設けられた高台から狩りの様子を観覧しました。御立場は土を台形に高く盛り上げ、頂上に座敷が設けられたもので、将軍が狩猟の様子を見渡せるようになっていました。御鹿狩りを行った将軍は、その御立場から、鹿が追い込まれて狩られる様子を眺めるだけでなく、狩猟を指揮・監督しました。
五香公園に建てられている「史跡御立場跡」の石碑は、その場所を示すものですが、実際に設けられていた御立場はそこから百メートルほど南東でした。
この御立場へは、松戸宿を経由して向かいます。橋の架けられていない江戸川は、船を並べた橋を作って渡りました。
徳川吉宗は、松戸の松龍寺で朝食を取ったとされます。御鹿狩りを行った他の将軍も同寺を御小休所として使いました。松戸宿の入口を示す「是より御料松戸宿」から数分のところにある松龍寺の山門に見られる徳川家の三つ葉葵紋は、徳川幕府との結びつきの強さを表しています。
松戸宿は見物人で大盛況
御鹿狩りの前日の夜は、その様子を一目見ようとする見物人で、松戸はもとより、小金や市川、船橋などの旅籠はどこも満杯になりました。特に、徳川家慶の御鹿狩りのときには、徳川家斉の御鹿狩りの資料を江戸市中の出版元が復刻して宣伝したため、江戸からの見物人が大挙して押し寄せたと言われます。旅籠に泊まれなかった見物人は、蕎麦屋や髪結床、農家、遊郭など、さまざまなところに宿を求めたようです。
二万人を超えるとも伝えられる見物人は、狩り場周辺の勢子土手からその様子を眺めたと言われます。御鹿狩りが終わると狩り場が公開されたため、翌日以降も見物人が詰めかけました。
狩猟好きの徳川吉宗による平和な時代の鹿狩り
御鹿狩りを先駆けた徳川吉宗ですが、無類の狩猟好きだったことだけが理由ではありませんでした。江戸時代の中期に入り、平和が続く中で武士の気持ちが緩みがちだったのを見て、鹿狩りに名を借りた軍事訓練を実施したのではないかと考えられています。
もちろん、鹿や猪などの害獣駆除の目的もあったと思われますが、それ以上に将軍の権威や威光を、あらためて大名や旗本、農民などに知らしめる一大行事としての意味合いが強かったと思われます。鹿狩りに参加した武士の昇進度合いは格段に高く、武芸に優れた者が出世するという認識を与えました。
緊迫する日露関係を反映した江戸時代中期の鹿狩り
第十一代将軍の徳川家斉の鹿狩りは、吉宗が実施した七十年後に行われました。その規模は数倍に膨れ上がり、勢子農民は七万人を超えました。当然ながら小金原周辺の農民だけでは足りず、他の地域からもかき集められました。
この理由は、徳川吉宗の御鹿狩りが武芸奨励を主な目的としていたのに対して、家斉のそれは大群を動員し統率する軍事調練の場として利用したからだと考えられています。実は、徳川吉宗の御鹿狩りの数年前から、開国や通商を求める異国船の来航が度々ありました。幕閣では、迫りくる外国の干渉に対する鎖国維持と国防の意識が高まっていたのです。特に、アイヌ人の蜂起もあって、ロシアとの関係は緊迫していました。
ただ、小金原の鹿や猪はその数が減っており、大掛かりな狩りにしては捕らえた獲物の数は少なかったようです。
開国を要求する外敵を意識した幕末の鹿狩り
小金原で最後に行われた御鹿狩りは、第十二代将軍の徳川家慶によって行われました。その頃には、鹿や猪などの獲物も目に見えて減ってきていました。そのため、近隣の地方からわざわざ買い集めて狩り場に放つ方法が採られました。
つまり、徳川家慶による御鹿狩りは、もはや外敵を意識しての軍事演習にほかなりませんでした。そのため、規模は鹿狩り史上最大となり、勢子は十八万人にも及びました。
この御鹿狩りの数年前、アヘン戦争が終結し、南京条約で香港が割譲されています。欧米列強が次に狙うのは日本であり、実際にしばしば来航して開国と通商を求めてきていました。小金原での最後の御鹿狩りは、国防の一環であり、幕府の威信を国内外に示したかったのだと考えられます。
(かつ)
■参考図書/「徳川将軍の小金原御鹿狩」「松戸史談」「小金原を歩く」「近世下総牧の研究」「新京成電鉄沿線ガイド」「わがふるさと金ヶ作陣屋と村の物語」
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