来迎寺 らいこうじ(松戸市松戸)
2025年1月24日号 第726号
かつて江戸川は古ヶ崎と樋野口付近で東に大きく湾曲しており、舟を停めるのに都合の良い干潟が広がっていました。そこは荷物を扱う河岸として栄え、問屋や船宿が軒を連ね賑わっていたと伝えられています。
来迎寺は、江戸時代初期のそんな活気ある地域に創建されました。当時は、隣接する平潟神社と境内を共有していました。
平潟河岸と呼ばれるようになる頃には、松戸宿を凌ぐ旅籠屋(船宿)が集まり、飯盛女と呼ばれる女性が夜の相手をする場も生まれました。江戸時代中期には、幕府がこうした「あいまい宿」を事実上許可し、平潟河岸は「平潟遊郭」として発展しました。
来迎寺には、かつてこの平潟遊郭にあった妓楼「九十九楼」の名が刻まれた遊女の墓が今も残されています。形式上、遊女は営業や廃業が自由でしたが、実際には貧困で娘を身売りさせられた親の借財を返済するまで辞めることはできませんでした。年季はほぼ三年で、その間、遊郭から出られない生活を強いられたのです。
来迎寺正門の左右に建つ六地蔵は、そうした遊女たちの「来世こそ救われたい」という思いを受け止めてきたのかもしれません。六地蔵は通常、六体が並ぶ形式ですが、来迎寺の左手にある六地蔵は珍しい灯籠型で、六角形の各面に六道を守護する地蔵が浮き彫りされています。 (かつ)
※参考図書/「松戸史談」「松戸今昔物語」「イラストまつど物語」「新編旧水戸街道繁盛記」
◎所在地/松戸市松戸2175
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