2020年9月4日 第621号
水戸街道、松戸街道、流山街道…。松戸にはいくつかの「街道」がありますが、こんな名前の道もあるのですよ。「鮮魚街道(なまみち・なまかいどう)」。地名が付くことの多い街道名の中で、珍しくてわかりやすいネーミング。どんな道なのでしょう。
【「鮮魚街道」ってどんな道?】
主に銚子沖で獲れた魚を、江戸日本橋の魚河岸まで運ぶための陸路部分です。鮮魚を、銚子から利根川をさかのぼり木下(きおろし)で陸揚げし、白井ー鎌ヶ谷ー市川ー行徳を経て再び水路で日本橋に輸送する行徳みち、利根川をさらにさかのぼって、布佐より手賀沼の南を通って松戸に至る松戸みちがありました。 行徳みちがメインルート、松戸みちは脇道のような位置付けでしたが、松戸みちの輸送量の方が多かったようです。肝となるのは、その荷駄が鮮魚だということ。魚は馬で運ばれていたのですが、行徳みちは途中の鎌ヶ谷で荷駄を付け替えていたため時間がかかる、一方松戸に至るルートはダイレクトに目的地まで行くことができたので、鮮魚がいたむことを極力避けることができました。
鮮魚街道の松戸みちは、一刻も早く江戸に魚を届けるための最速の道だったのです。夕方、銚子を出発した鮮魚は、約80キロメートルの水路を夜通しかけてさかのぼり、未明に布佐に到着。今度は馬の背に揺られながら陸路、松戸までの約30キロメートルを、西へ西へと進みます。
◆「鮮魚、いただきます!」鰯(イワシ)
DHAやEPAなどを豊富に含んだイワシ。手に入りやすく、比較的安価なので、食卓に上りやすいお魚です。 焼いても揚げても美味しく頂けますが、骨が多いのが難点。だったら、圧力鍋を使ってみれば?少し濃いめの味付けに、梅干しやショウガなどお好みのものをイワシと一緒にお鍋へ。圧力をかけて煮れば、骨までホロホロ。カルシウムたっぷりの健康食品です。
【「鮮魚街道」はどこを通るの?】
「…その賑他処に倍し、人声喧雑、肩摩り踵接し、傾くる魚は銀刀を閃かし鉛錘を投じ、桃花を散じ、葉を翻して、一時の佳景と称するに足れり…」(利根川図志)。千葉県我孫子市布佐。JR成田線の布佐駅から利根川に向かって歩くこと十分弱ほどで到着する「鮮魚街道」の起点の光景です。ここから、印西市の発作ー亀成ー浦部ー白幡、白井市の平塚ー富塚と進み、柏市の藤ヶ谷へ。「…馬子がよく藤ヶ谷の相馬屋さんに寄って飯を使ったり、お茶を飲んだりしていました。相馬屋さんの少し手前には水切場があって、魚の持ちをよくするために水がかけられました。…」(富塚に住んだ人の話)。ここは街道の中間地点として賑わい、道中の安全を祈念した常夜燈や、金毘羅宮が造られました。 つかの間の休憩を取り、旅は続きます。鎌ヶ谷市佐津間。駄馬がこの辺りの坂に差し掛かると、揺れて積み荷の魚がこぼれるので、付近の住民がそれを拾っていたのだそう。そのような光景は他の場所でも見られていたのかもしれません。もうすぐ松戸です。
◆「鮮魚、いただきます!」秋刀魚(サンマ)
秋のお魚と言えば、これ!塩焼きにしたサンマは、皮はパリパリ、身はフワフワ。大根おろしを添えて「いただきます」。輪切りにしたサンマに小麦粉をまぶし、フライパンでこんがりと焼きます。そこに、酒・醤油・みりんで味付けして煮詰めたら蒲焼のできあがり。黄色味がかった口ばしが、新鮮な証だとか。脂の乗ったサンマは、代表的な秋の味覚です。
【松戸の街道をゆく】
「親は旨酒、子は清水」の子和清水。清水は、魚の鮮度を保つ為にかけられていたようです。ここで喉を潤したであろう馬子と馬は、金ケ作、日暮へ。「松戸千軒こわくはないが門前十三軒こわくてならぬ」。十三軒とは陣屋の門前の役人たちのことらしい。ここを通るときは馬子がいくつかの魚を置いて通してもらった、という言い伝えがあるそうです。
都市化が進む松戸でも、庚申塔や青面金剛を見かけることがあります。村の境にあって疫病などが入ってこないよう地域を守る神であり、同時に旅人の安全を守る神様。鮮魚は、街道沿いの神々に守られながらいよいよゴールへ。 千葉大学園芸学部の下を通り、常磐線を越えると、終着点である江戸川の納屋河岸はすぐそこ。歩くこと7~8時間。雨が降っても風が吹いても、舗装のされていない道を魚河岸のせりに間に合うようひたすら進んだ道のり。100キログラムを超える鮮魚を背に乗せた馬とそれをひく馬子は、江戸川を下って行く鮮魚荷をどのような気持ちで見送ったのでしょうか。
◆「鮮魚、いただきます!」鯵(アジ)
焼いてよし、煮てもよし、フライにしても美味しいアジ。なじみのある魚のひとつで、この時期には、アジをねらう釣り人も多い
ようです。釣果があったり、お刺身で売られていたら、こんな頂き方はどうですか?身を荒く刻んでご飯の上に。お好みでショウガや大葉、茗荷や海苔などを添えて召し上がれ。簡単、ヘルシー、美味しい丼の出来上がり。
約百万人が暮らす大都市、江戸。鮮魚街道で運ばれた魚は、江戸っ子たちの腹を満たし、活力を与えていました。ところが明治二十七年に総武線が、明治三十四年に成田鉄道がそれぞれ開通すると物流は大きく変化し、鮮魚街道も徐々にその役目を終えることになります。鮮魚を東から西へと運ぶ街道。現在、実際の鮮魚街道をたどることは難しくなりました。しかし、その道筋には多くの人や車が行き交い、今も活きているのです。(ミイ)
◎参考文献/
「松戸市史」 中巻近世編
「利根川木下河岸と鮮魚街道」 山本忠良 著
「松戸史談」第13号『生街道の終点松戸鮮魚 荷宿』 青木源内 著
「松戸史談」第46号『鮮魚街道(三)』 松田孝史 著
「松戸史談」第58号『生街道(鮮魚街道)に ついて(要旨)』 松田孝史 著
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