特集記事

祝!20周年

2021年10月22日 第648号

生活情報紙ウキウキをご愛読いただき誠にありがとうございます。ウキウキは、十月をもちまして創刊二十周年を迎えました。これもひとえに皆様の温かいご支援と心より感謝申し上げます。

ウキウキは、地域を「元気にウキウキさせるような情報紙をつくろう」を目標に創刊いたしました。振り返ると、これまでいろいろな取材をしてまいりましたが、どれもこれも想い出に残る取材ばかりでした。
 そこで今号は、その想い出をテーマに、過去二十年に特集した一面記事から松戸市の歴史と街の移り変わりについて紹介した記事を復刻版として紹介させていただきます。現在の様子も加えて再編集いたしましたので、お楽しみいただけたら幸いです。

2002年10月11日発行【ウキウキ創刊号】

記念すべき創刊号は、21世紀の森と広場・木もれ陽の森の特集でした。「秋だから外メシ!!」というキャッチフレーズもどこか時代を感じさせます。当時の記事には「暑かった夏も終わり、野外活動にピッタリの季節がやってきましたね。食欲の秋でもありますから、家族や、仲間と外でワイワイ、ガヤガヤと食事をしてみませんか」とバーベキュー施設「木もれ陽の森」の紹介からスタートしました。まさか二十年たった今、こうした言葉が積極的に使いにくくなる時代が来るとは誰も想像していなかったと思います。
 しかし、安心してください。現在もバーベキュー施設は、感染症予防対策を行いながら営業しております。
※バーベキュー場の営業は変更になる場合がございます。詳しくは事前にホームページをご確認の上、ご来場ください。

感染症対策
松戸アートピクニックの様子

★木もれ陽の森バーベキュー場【完全予約制】

https://www.bbq21.net/bbq/
tel 047-385-1815(受付時間9時から16時まで)
 また、21世紀の森と広場では、「松戸アートピクニック」と題して、公園の自然環境を舞台に現代アートから多様な文化的価値を創造する芸術祭を開催予定です。

2003年2月21日発行第20号より【松戸の歴史】

私たちの暮らす松戸市は昔はどのような所だったのでしょう。
簡単な松戸の歴史のお勉強です。

◇いつごろから人が住んでいるの?

松戸市からは貝塚をはじめとする多くの遺跡が掘り出されています。なんと貝塚だけでも市内で40箇所も発見されています。それらから約一万年前に松戸に人が住んでいたことが推測できます。縄文時代前期の松戸は気候も温暖で海と陸の境目であったために、食べ物を比較的入手しやすかったので人々が住み集落ができたのです。
 しかしその後、海岸線が後退して自然の恵みを得られなくなり、新たな獲物や食物を求めて松戸から人々は去ったようです。

◇松戸市の地名の起こり

諸説ありますが、「更級日記」に「まつさと」という表記がありそれが後に「まつど」に転じたと言われています。「更級日記」は菅原の孝標の娘(すがわらのたかすえのむすめ)が父親の任地上総国から京都に帰る際の話を晩年思い起こして書いた物ですが、当時から松戸は交通の要所であったようです。平安時代の終わり頃から鎌倉時代、南北朝時代、室町時代にかけて松戸は下総国の一部として豪族千葉氏によって治められていました。

◇戦国時代の話し

 前述したように松戸は交通の要所であった為か、武力衝突、すなわち合戦の場所にもなりやすく、市内にも合戦場の跡が多数残っています。そして多くの悲しい物語があります。その中でも、※1「経世塚の伝説」※2「血染の茅の伝説」は涙を誘います。(石碑めぐり特別編として後述します)
 戦国時代中期の松戸及び近隣のかなりの広範囲は、小金城主高城氏が治めていたようです。1590年に豊臣秀吉の関東攻めによって滅ぼされてしまいますが、現在も大谷口に城趾があります。

◇◆◇

【石碑めぐり特別編】

※1「経世塚の伝説」
聖徳大学(松戸市岩瀬)のキャンパスに、「相模台の合戦」に因むふたつのものが置かれています。「相模台戦跡碑」と「経世塚」です。
 時は16世紀半ば、戦国時代。松戸から市川にかけての一帯で2度にわた
る大きな合戦がありました。「こうのだいの戦い」です。この戦は「北条記」をはじめとする数々の物語に描かれています。さて、2度の合戦のうち天文7(1538)年に起きたものを「相模台の合戦」、または「こうのだい前の戦」、あるいは「第一次国府台合戦」などと呼びます。
 この戦で一方の大将足利義明は10月2日市川城(国府台城)に入り、主力部隊を松戸の陣ヶ前に、また物見50騎を相模台に置いて、敵対する北条氏綱を迎え撃とうとしていました。7日朝、氏綱が江戸川の松戸対岸に姿を見せて川を渡ります。戦いは夕刻には決着がついて義明一族は事実上滅んだのでした。戦死した義明たちを葬ったのが「経世塚」で、戦の舞台の記念碑が「相模台戦跡碑」です。
 松戸市小金「本土寺」の過去帳に記録が残っていて、1000人以上が戦死したと書かれています。
 この話が「経世塚の伝説」に続いております。ともに戦死した義明の嫡子義純の乳母(めのと)れんせいが、悲しみのあまり泣き続け眠ってしまうと、夢の中に血まみれの義純が現れ、れんせいにあまり嘆くなと慰めたといいます。その後、れんせいは「けいせい」という尼になり、この塚で経を唱え続けました。いつしかそれがけいせい塚と呼ばれるようになったという伝説です。
2016年8月26日発行「石碑めぐり99相模台戦跡碑」
※伝説の話参考文献「松戸郷土史談第二巻」きりん亭猿象著

相模台戦跡碑
経世塚
血染めの茅伝説イメージ

※2「血染の茅の伝説」
松戸市大谷口。この地にも小金城落城にまつわる悲しい伝説があります。
天文6年(1537年)根木内城の高城氏四代胤吉(たねよし)は大谷口に8年かけて築いた小金城に移りました。外観が見事で開花城と呼ばれたそうです。下総・上総で安房の里見対小田原の北条が戦を繰り返していた頃です。
 第一次国府台合戦では胤吉、第二次では子の胤辰(たねとき)が活躍し、その恩賞で葛西、亀戸など東京の下町の江戸川区、墨田区、葛飾区や市川、船橋など得て、それまでの松戸、柏、我孫子などの地域を加えると高城氏の所領は12万石となりました。その後、胤辰は永禄9年(1566年)に下野守に任ぜられましたが、46歳で亡くなり、12歳の胤則(たねのり)が後を継ぎます。
 天正18年(1591年)、豊臣秀吉が小田原攻めを開始。千葉介一門の繋がりから胤則も北条氏の支援のため小田原へ700騎を率いて駆けつけます。ところが城主が留守となった小金城を秀吉側の浅野長政が攻めたのです。当時の壮絶な様子を伝える話があります。留守の城には胤則の美しい姉姫がいました。留守番の家臣たちは姉姫を守ろうと必死でした。しかし多勢に無勢。姉姫は城を抜け出し逃げますが、明るい月夜であったため、すぐ敵に見つかってしまいました。身の丈もある茅の茂みに隠れましたが、刀や槍で突つかれ、逃げ回ると茅はまるでカミソリのようで顔や手足が切れて血が飛び散り、まもなく姫は息絶えました。その一帯は姫の血で真っ赤に染まりました。それからというもの一帯の茅は秋になると黄色くならず赤くなり、それが「血染めの茅」の伝説となったのです。
北条氏が豊臣氏に敗れ、小金城には家康の五男で8歳の信吉が入城しましたが、その後信吉は佐倉城へ移り、小金城は廃城となりました。
※参考文献
謎のなんじゃもんじゃ千葉の民話」岡崎柾男著

小金大谷口城跡
小金大谷口城跡

◇◆◇

◇江戸時代

Image Photo

小金は戦国時代より栄えていましたが、江戸時代の初め頃の松戸は人口も少なく松戸村と呼ばれていました。その後、天領となり、他所から人々が流入してきて人口も増え、松戸宿となったようです。その後は水戸街道の交通の要所として発展をし、人口の増加に伴い原野や沼地を開墾して新田が開発されました。現在でも地名に新田とつく地名が多いのは当時の名残です。
 また松戸の名産品のひとつ、梨の栽培が始まったのも江戸時代のことです。その後梨は品種改良を続け、明治37年に「二十世紀梨」と名付けられ、松戸市の特産品として数多くの梨農家が生産に力を尽くしています。

◇明治時代以降

常盤平団地スターハウス

 古くから交通の要所であった松戸に鉄道が開通したのは明治29年で、同時に松戸駅が開設されました。後に馬橋駅が明治31年、北小金駅が明治44年に開設されました。当時は日本鉄道株式会社海岸線と呼ばれ、常磐炭鉱から石炭を京浜方面に輸送するために開通したそうです。その後国有化され、常磐線という現在の呼称になりました。また、江戸川を挟んで対岸の金町村との間に、明治44年に葛飾橋が完成し、陸上交通も発達していきます。
しかし木の橋だったために傷みが激しく、昭和2年には現在と同じ場所に鉄橋がかけられて、自動車輸送の発達も相まってますます陸上交通が盛んになったそうです。
 明治18年に松戸市が誕生しました。大正5年には流山軽便鉄道が馬橋駅流山駅間で開業。大正12年には後に東武野田線となる鉄道が柏駅から船橋駅まで延伸されて松戸市内には六実駅が開設されました。昭和30年には松戸津田沼間に新京成電鉄が開通します。そして昭和35年には新京成電鉄の金ヶ作駅(当時、後の常盤平駅)駅前、金ヶ作地区に現在の常盤平団地の一部が完成し入居も始まりました。その後も松戸市はベッドタウンとして栄えていきます。
 何といっても松戸市を全国的に有名にしたのは、昭和45年市役所に「すぐやらなければならないことですぐやり得るものはすぐやります。」の考えで作られた「すぐやる課」ではないでしょうか。これは昭和44年に第九代松戸市長になった松本清氏のアイデアによるもので、松本氏は「市役所とは市民のために役立つ人のいる所。」と市民のためのわかりやすい行政を目指し、その後も「長生き課」や「しあわせ課」などの部署を作りました。
松本清氏は市長在任中の昭和48年に惜しくも急死されてしまいましたが、その卓越したアイデアと行動力は広く松戸市の名前を広めました。余談ですが松本清氏は名前からおわかりのとおりマツモトキヨシの創業者で、商売の方でもアイデアマンであったようです。北小金駅前で開業された1軒の薬局が現在では、我が国有数のドラッグストアのチェーン店になりました。
 駆け足での松戸の歴史でしたが、松戸は歴史のある町なので、まだまだほんの触りだけです。調べれば調べるほど興味が湧いてきました。地名の由来なども調べると楽しそうです。地元にも歴史を研究されている方がたくさんいるとうかがっています。そんな方達ともお会いしていろんなことを教えていただきたいと思っています。

2004年7月2日発行 第87号より【松戸駅前の移り変わり】

新旧建物が建つ「松戸宿」

松戸は江戸時代、松戸宿として水戸街道の金町関所から船で江戸川を渡る重要な場所として栄えてきました。しかし宿の賑わいは現在の駅付近ではなく、江戸川に沿って建てられた武士が泊まる本陣や脇本陣などだったそうです。
 明治29年12月に「松戸停車場(現松戸駅)」ができましたが、駅前の商店はわずかで、大正12年頃
でも5軒と今からは考えられない風景だったようです。
物資の輸送が江戸川による水運から、鉄道による輸送に変わるにつれて店舗が増え、昭和に(当時の写真掲載)なってからは商店街と呼べるほどになり、戦後数年経ち松戸駅前商工振興会が誕生しました。場所柄「松戸の顔」としての心意気を全店舗が持っていたと聞きました。設立当時の店で現在もあるのは十数店舗と大半が入れ替わってしまいましたが、その気持ちは受け継がれてきています。(現在では数店舗になりましたが、元気に営業されています)
 昭和46年、松戸駅前は写真のように道幅も狭く雑然とした街並みでしたが、その後の松戸駅西口土地区画整理事業でロータリーができ、昭和48年には現在の駅前通りが完成しました。
 この頃松戸市の人口は30万人を突破し、駅前の人の流れも次第に多くなってきました。そこで商店街ではお客様のことを最優先に考えて、「松戸サンナード」の愛称のもと西口アーケード(昭和53年12月完成)を設置し、「雨の日でも駅から傘をささずに買い物ができる」と喜ばれました。

松戸駅西口の移り変わり

 ロータリーの上に西口デッキができたのは昭和61年で、「からくり時計」やベンチが置かれ、一層「松戸の顔」となりました。しかし2004年3月、26年間頑張ってきたアーケードも寄る年波には勝てず、その役目を終わりました。
 そして、それから16年が経ち現在の松戸駅西口駅前です。(左の写真)お客さまのライフスタイルに合わせて商店街の様子も変わりましたが、いつまでも駅の西口から伸びる商店街の風景を残してもらいたいと思います。

2021年現在駅前の松戸駅西口ロータリー
1973年頃の松戸駅西口ロータリー

2005年11月25日発行 第156号より【わが街 新松戸】

古い歴史のある新しい街、新松戸。街の昔と今を探ってみました。

◇新松戸のあけぼの

1978年 新松戸航空写真

 区画整理事業の始まる前、昭和40年代前半までの新松戸地区は小金・幸谷・二ツ木・横須賀・大谷口・大谷口新田の旧六ヶ村にまたがる水田地帯でした。戦国時代高城氏の支配下にあったころ、現在の新松戸(一丁目から七丁目)の大部分は沼沢地。この低湿地帯に開発の鍬が入れられたのは江戸時代の初めのこと。
 その後の歩みは毎年のように繰り返される洪水との戦いの歴史でもありました。台地に対して下谷と総称された所以です。

◇新松戸駅誕生

 近隣の国鉄の駅の開設は松戸駅、馬橋駅、北小金駅など、昭和27年開設の北松戸駅以外はいずれも明治時代ですが、新松戸駅の開設は武蔵野線・新松戸~府中本町間が開通した昭和48年(1973年)とはるかに時代が下ります。
 新松戸駅によると、現在1日の乗降客は約4万人(2005年当時)だそうですが、開業当時はガラガラ。駅名が「新松戸」に落ち着くまでには紆余曲折もあったようですが、今となっては北馬橋や南小金ではなくやはり「新松戸」がぴったりですね。区画整理事業が始まった昭和45年(1970年)当時、新松戸(一丁目~七丁目)は戸数わずか32戸、人口163人だったとか!掲載の航空写真は武蔵野線・新松戸~西船橋間が開通した昭和53年(1978年)のもの。中央を走るけやき通り沿いには大きな建物はありませんが、拡大すると前年に植樹されたばかりのケヤキ並木を確認できます。
 現在(2005年当時)、新松戸の戸数は1万3千戸弱、人口は3万人強。横須賀、新松戸東・南・北の各地区を加えると1万8千戸、4万4千人を超える規模になりました(※この記事は2005年10月時点の調査で、現在、新松戸の戸数は1万5千戸強、人口は3万人弱。横須賀、新松戸東・南・北の各地区を加えると2万2千戸弱、4万3千人強~松戸市住民基本台帳より)。

1973年開業時の新松戸駅舎(提供:フジカラープラザ南流山)
1973年開業時の新松戸駅前(提供:フジカラープラザ南流山)

◇流通経済大学新松戸キャンパス

2004年4月、新松戸は若い仲間を迎えました。斬新なデザインのビルとけやき通りに面した開放的なエントランスはとても都会的。流通経済大学新松戸キャンパスは街の新しい顔としてすっかり地域に定着したようです。

2005年当時の新松戸(流経大よりけやき通り方面)
流通経済大学とけやき通り(現在)

◇現在の新松戸

今回は、35周年を迎えた新松戸商店会連合会の阿部会長にお話をうかがってまいりました。
 長引くコロナ禍で商店会の会員数も減り、厳しい状況下ではありますが、毎年恒例の「新松戸光のフェスタ」は今年も開催します。只今「新松戸駅前イルミネーションを応援しよう!!」プロジェクトを立ち上げ、クラウドファンディング(イルミネーション装飾基金)で皆様のご支援をお願いしております。ぜひ「キャンプファイヤー新松戸」で検索してみてください。
 今後は新坂川に設置された新松戸親水テラスでも様々なイベントを開催予定です。また、11月には「まちゼミ」が開催されます。感染症対策を行いながら、万全の態勢で皆さまをお待ちしております。ぜひご参加ください。コロナ禍に負けない、明るい街づくりを地域の皆さんと共に築いていきたいと思っております。


 次のコーナーで紹介するのは、これまでで最も反響の大きかった記事の紹介です。現在放送されているNHKの大河ドラマの中でも詳しく描かれておりました徳川昭武が晩年を過ごした戸定邸の紹介です。(2020年10月9日号より)

水戸藩最後の藩主、
徳川昭武が晩年を過ごした
戸定邸

■江戸幕府最後の将軍の弟

 幕末は、アメリカのペリーが四隻の軍艦を率いて東京湾の浦賀沖に現われた、いわゆる「黒船来航」に始まったと言われます。事実、江戸幕府は大いに揺れ、その権威は失墜し、薩摩藩や長州藩、土佐藩などを中心とした倒幕運動につながっていきます。
 江戸幕府にとっては、間の悪さも災いしました。「黒船来航」と同じ月に第十二代将軍の徳川家慶が病死してしまったのです。江戸幕府の将軍職は世襲だったので、第十三代将軍には息子の家定がつきましたが、彼はもともと病弱でした。就任してから五年後に亡くなってしまいました。次の第十四代将軍になったのは、十二歳の家茂です。前将軍の家定にもっとも近い血筋だったからです。もちろん実権などはほとんどなく、将軍後見職が政治を代行しました。この家茂も将軍就任の七年後に二十歳で病死しています。
 続く第十五代将軍も、血筋からいけばわずか三歳の家達がつくはずでしたが、最高位の老中などの推薦もあって、当時二十九歳だった徳川慶喜が就任しました。第十二代将軍の徳川家慶の死後十二年経ち、改革を主導する将軍が誕生したのです。
 徳川慶喜は、前将軍の家茂の代に将軍後見職も経験していて、情勢の変化も肌で感じていたのでしょう。将軍として、外国との交流を推し進めていきます。
 その一環として、若干十三歳の弟の昭武を、フランスで開催されたパリ万国博覧会に、将軍の代理として派遣します。四十以上の国が参加する博覧会で来るべき世界を見せたかったのでしょうか。もしかすると、薩摩藩や長州藩が倒幕から討幕へと傾いてきていたことで予想された内乱に幼い弟を巻き込みたくなかったのかもしれません。いずれにしても、十代半ばの昭武は、大政奉還から戊辰戦争へといたる動乱期を、フランスで過ごすことができたのです。

戸定邸外観
小径
与謝野晶子の歌碑
庭園の東屋の一つ

■戸定邸から見えた常磐線

 徳川昭武が帰国すると、待っていたのは、兄の徳川慶喜による江戸幕府ではなく、明治新政府でした。そのまま水戸藩主となりましたが、同じ年に版籍奉還が実施されて知事に変わったので、結果的に最後の水戸藩主となりました。昭武が十五歳のときです。
 その二年後には廃藩置県が行われて、職からも退くことになります。以後、陸軍士官やフランス再留学などを経て、二十九歳で隠居を決めます。
 戸定邸に移り住んだのは、その翌年です。
 現在は、戸定邸の眼下に常磐線を見られますが、徳川昭武が住み始めた頃は、江戸川による人や貨物の輸送が一般的でした。松戸にはその船着場がいくつもあったことから、幕末から明治へと移行する混乱期を除いて、活況が続いていました。明治十年には、木造ではありましたが、外輪蒸気船の
「通運丸」も就航され、大量輸送も可能となりました。両脇に大きな外輪をつけて進む姿は、当時の人たちにはとても興味深いものだったようで、浮世絵などのモチーフにもなりました。ちなみに、この「通運丸」を就航させたのは、現在の日本通運の前身である「陸運元会社」です。
 当時の江戸川には橋もかけられていなかったことから、松戸から金町への「渡し」も盛況だったようです。今も残る「矢切の渡し」は、当時から小規模で運営されていたものでした。明治三十九年発表の悲恋小説「野菊の墓」で、矢切が舞台になっていたことにより、広く知られるようになりました。
 水運の活況ぶりは、徳川昭武が戸定邸に移り住んでからもしばらく続きましたが、土浦から田端までの鉄道が開通し、松戸にも停車するようになると、水運は急速に衰退していきます。

東屋庭園から見た現在の常磐線

■松戸町から松戸市へ

東屋庭園から見た現在の江戸川

 当時の常磐線は単線であり、本数も少なかったので、東京への日帰りも大変でしたが、船で半日がかりだったところが二十分あまりに短縮されたことにより、利用者は着実に増えていきました。
 フランスへの二度の留学経験のあった徳川昭武にとって、蒸気船も鉄道も驚くほどのものではなかったでしょうが、明治になってからの松戸の発展ぶりを眼下にするにつけ、思うところは少なからずあったかもしれません。
 明治四十三年、徳川昭武は五十六歳で他界します。兄の慶喜が七十七歳まで生きたことを考えると、早すぎる死と言えます。
 この翌年、江戸川に葛飾橋がかかり、松戸は東京と陸続きになります。鉄道も庶民の足として定着して、東京の住宅事情などから衛星都市として、松戸の人口は増加の一途をたどっていきます。
 増加が加速したのは、およそ百年前に南関東で起こった大地震、いわゆる関東大震災以降です。
この地震はお昼どきだったことで多数の火災が発生し、それが近くに来ていた台風の影響でまたたくまに燃え広がってしまいました。当時の東京の半分近くが焼失したと言われています。千葉県にも被害はありましたが、幸いにも戸定邸を含めて松戸周辺はわずかなものですみました。
 この結果、東京から他の都市や郊外へ人口が流出することになりました。松戸でも住宅開発が進み、松戸から都心部へと通う人が増えていきました。
 関東大震災から三十年後、高木村や馬橋村と合併することで市政への条件を満たした「松戸町」は、「松戸市」となります。以後も周辺の町や村を編入していき、現在の松戸市ができあがりました。   

梅園
東屋庭園

戸定歴史館・戸定邸のご利用について
詳しくはホームページでご確認ください。
[松戸市戸定歴史館]で検索!!

戸定が丘歴史公園入口

◇◆◇

★創刊当時より記者として活躍された方よりコメントをもらいました。

創刊20周年おめでとうございます。
 数ヶ月前記者生活を卒業しました。この18年間に書いた約400の記事を読み返してみると、心を動かされた対象を記事にできたことが記者活動の励みになっていたことを実感しました。
 取材を通して視野が広がり、今に続く大切な出会いもありました。不案内だった近隣地域も身近に感じるようになりました。
 記者生活を楽しめたことに感謝!です。

【これからのウキウキ】

ここまでの20年、温かいお言葉も、お叱りのお言葉もたくさんいただきましたが、そのお言葉全てウキウキの大切な宝物となっております。私たちはまだまだ進化の途中です。昨年リニューアルしたウェブ版のウキウキプラスも、もっと皆さまの身近に感じるようなウェブサイトにしていきたいと思っております。
どうかこれからも末永くウキウキを応援してください。
(UKIUKI編集室より)

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