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松戸も揺るがした 幕末維新の神仏分離令

2023年1月27日 第678号

江戸時代の末期、いわゆる幕末の動乱期から、明治政府が成立する間に、政府の主導によって実施されたのが「神仏分離」です。宗教的主宰者と政治主権者が同じ者になる「祭政一致」を目指して行われ、かつての神武天皇の時代のような、天皇を中心とする政治体制に戻そうとしました。結果的には、近代化の流れに逆らうことはできず、新政府のこの政策はつまずくことになりますが、日本各地の寺社は大きな影響を受けました。松戸も例外ではなく、この「神仏分離令」によって、いくつもの寺社がその様子を変えることになりました。

【「神仏習合」から「神仏分離」へ】

①小金 八坂神社

 仏教は朝鮮半島から伝わり、かの聖徳太子の後押しもあって、ゆるやかに日本各地へと広がっていきました。日本には古来より民族宗教である「神道」がありましたが、自然に従う自然道を旨とする神道に対して、経典という言葉で考える仏教は人間道ともいえるものだったことから、神道の「神」と、仏教の「仏」はともに崇敬されるようになりました。神道の考え方が「和」であることもあって、無理なく「神仏習合」の状態にあったのです。
 こうした神と仏の対等とも言える関係に変化が生じてきたのは奈良時代になってからです。国家から保護され始めた仏教は、平安時代の初めになると、日本の八百万(やおよろず)の神は仏の化身だとする「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」と呼ばれる説が現れたことにより、神道よりも起源が古いと見られるようになります。もともとあった神社の境内や近辺に寺院が建立され、神社の神々を仏教的に供養するようになります。逆もあり、寺院の境内や近辺に、守護神(護法神)として神社(鎮守社)を建てるようになります。それまでとは異なる「神仏習合」です。
 この「神仏習合」の形を本来のあり方に戻そうというのが「神仏分離」です。江戸時代にはすでにその動きがあり、会津藩や水戸藩などでは実際に行われました。会津藩では、神社から仏像や仏具が除かれ、古い神社は再興されました。水戸藩では、「水戸黄門」として知られる徳川光圀が寺院整理で領内の約三割を破却しました。同時に、一村一社制を基本に神社の整理も行われました。
 こうした諸藩での「神仏分離」を全国規模で実施したのが明治維新の新政府です。「神仏習合」という信仰形態を改めることで、かつて神武天皇が行っていたとされる「祭政一致」の復古を目指しました。

【山岳信仰の「権現」は廃止】

②小金 日枝神社

 神仏分離令では、「権現(ごんげん)」を名乗る神社に対して、仏像を御神体としないように求め、いわゆる「神仏混淆(しんぶつこんこう)」を禁じました。「権現」は、さきの本地垂迹説によるもので、仏の化身としての神を現していたからです。
 日枝神社の「日枝(ひえ)」は比叡山に由来します。比叡山には天台宗の総本山となる延暦寺があり、その鎮守社(護法神)として日吉社が発展しました。「日吉」は古くは「ひえ」とも読まれていて、「比叡」や「日枝」の字が当てられました。平安時代の後期になってからは、「山王社」と呼ばれるようになり、本地垂迹説が現れると「山王権現」として延暦寺と一体となって、社殿に仏像がまつられたり、僧侶が神前で読経したりする光景が当たり前に見られるようになりました。
 このように神仏習合の代表のような山王権現でしたから、すぐに神仏混淆禁止の対象となり、仏像や経典、仏具がすべて撤去され、「山王権現」は「日吉神社」や「日枝神社」と改められました。
 熊野権現も同様で、熊野神社と改められることになりました。日蓮宗の本勝寺が勧請し守ってきた、河原塚の熊野神社も例外ではありませんでしたが、平成初頭まで「南無妙法蓮華経」と書かれた板の本尊が神社の本殿に残されていたそうです。
 王子神社は、萬満寺の守護神として創建され、そもそもは熊野権現の若一王子(にゃくいちおうじ)を勧請したものでした。「熊野権現」ではなく、「王子権現」でしたが、やはり神仏分離令で「王子神社」として独立しました。
 比叡山や熊野三山などへの山岳信仰は古くから日本にあったものですが、山で修行する仏教と密接な関係にあったことから、神仏分離令で大きな影響を受けました。
 松戸神社も、木曽御嶽山を霊山とする「御嶽大権現」であったため、神仏分離令によって様子を変えました。

③蘇羽鷹神社
④王子神社

【神と仏のいずれにも分類しえない日本固有の            「牛頭天王(ごずてんのう)」は「八坂神社」に】

⑤佐野 八坂神社

 牛頭天王は、富士山の貞観噴火、その後の貞観地震、そして続いていた疫病の流行などを収めようと祇園社や感神院などでまつられた神仏です。当初は観慶寺と呼ばれていて、薬師如来像を安置する本堂と、天神や婆利女、八王子をまつる神殿の混在する、まさに神仏混淆でした。平安末期頃からは、素戔嗚命(すさのおのみこと)とも同一視されるようになり、仏教由来の神仏ではなかったものの、牛頭天王は神仏習合そのものでした。

 当然ながら神仏分離令の対象となり、祇園社は「八坂神社」と改称することになりました。それを機に、各地に点在していた「牛頭天王社」も「八坂神社」などの社名へと変わり、素戔嗚命を御祭神とするようになりました。
 出雲で八岐大蛇を(やまたのおろち)を退治した素戔嗚命が、疫病や厄災を退けるとされる牛頭天王と同一視されたのは不思議な感じもしますが、実は素戔嗚命は疫病神としても広く信仰されています。

⑥金ケ作 熊野神社
⑦中和倉 熊野神社

【「明神」も仏教関連用語とみなされて減少】

 本地垂迹説の影響を受けて、仏教に関連すると思われたのが「明神(みょうじん)」や「大明神」です。両者はともに古くから神を指す名称として使われていて、幕末維新に先駆けて水戸藩で行われた神仏分離では、廃止の対象となるどころか、新建された神社の名称としても使われています。しかし、仏教関連用語として広く認識されていたことから、神仏分離令では明記されていないにも関わらず、松戸でも「蘇羽鷹大明神」が「蘇羽鷹神社」と改められています。
 日蓮宗の守護神として平賀本土寺にまつられていた「七面大明神」も、「七面神社」として独立しています。この七面神社には、「水戸黄門の大蛇退治」の伝説が残っていて、御神体は水戸光圀作と伝えられています。(かつ)
※参考図書/「新編旧水戸街道繁盛記」「神と仏の明治維新」「聖徳太子 本当は何がすごいのか」「図説あらすじでわかる!日本の神々と神社」「松戸風土記」「わが街河原塚いまと昔の物語」「歴史街道」「わがまちブック 松戸」

⑧門前 八坂神社
⑨河原塚 熊野神社
⑩松戸神社
⑪和名ケ谷 日枝神社

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