2023年5月12日 第685号
戦後、日本政府は経済成長を目指した政策を推し進めました。松戸でも宅地開発が盛んとなり、その過程で多数の遺跡が見つかりました。発掘調査の結果、竪穴式住居の跡をはじめとして、当時の日常生活の道具として使われていた素焼きの土器や、石で作られた斧や皿、土や貝、骨、角などによる装飾具など、さまざまな遺物が発見されました。現在では、遺跡の大部分は都市開発で失われてしまいましたが、標柱などでその痕跡を知ることができます。
【縄文時代は日本ならではの時代区分】
世界史では、鉄や青銅ではなく、石を加工して道具として使っていた時代を「石器時代」と呼びます。この石器時代はさらに、単純加工の「旧石器時代」と、石を磨いて刃部などを作り出していた「新石器時代」に分けられます。
日本における縄文時代では、すでに磨製石器が使われていたので、新石器時代といえますが、農耕や牧畜による発展、いわゆる「新石器革命」が確認されていないことから、新石器時代に含めるのには無理があります。しかし、縄文時代には、竪穴式住居のような建築技術があり、また植物の利用や、土偶などに見られる複雑な精神文化が認められることから、「旧石器時代」とも言えず、日本独自の「新石器時代」と捉え、「縄文時代」として時代区分しています。
【縄文土器の文様や形の推移により、
縄文時代はいくつかの期に整理されている】
土器の発明と使用から、それまでの旧石器時代と縄文時代は区別されます。特徴的な網目や線などの文様は、縄文時代の約一万年の間にも変化しており、形態や土質などを含めて年代判定が行われ、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期のような六期で整理されています。
松戸市内で見つかっている貝塚は、南寄りのものが比較的に新しい期のものであり、北になるほど古くなる傾向があります。また、前期や後期の貝塚では、出土する貝の量が少量であり、晩期にいたってはまったく貝が見当たらない遺跡もあることから、松戸市域では中期の頃に縄文海進による海面上昇の影響がもっとも大きかったと考えられています。
【出来山遺跡で草創期の隆起線文土器や
有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)が出土】
縄文時代の始まりである草創期は、氷河期後期から温暖期への転換期にあたり、寒冷な気候でした。この草創期の遺構は、松戸では発見されておらず、居住の痕跡を確認できていません。
松戸市立博物館そばにある出来山遺跡は、縄文時代以前の旧石器時代のものですが、縄文時代草創期の小型の土器である「隆起線文土器」や、木材や動物の皮を加工するための「有舌尖頭器」などが見つかっています。
草創期の土器は、隆起線文土器から爪形文土器、多縄文土器のように移り変わっていきます。松戸市内では、出来山遺跡でのみ、草創期の土器が出土しています。
尖頭器は、投槍や刺突具として、狩猟でも使われました。旧石器時代の後半に出現していて、縄文時代の草創期にわたって広く使用されるようになりますが、以降の縄文時代では、弓矢で用いられる石の矢じりが主な狩猟具となっていきます。
【八ケ崎遺跡では、早期の土器や住居跡が見つかる】
円形や方形などに掘った半地下の竪穴式住居による定住生活が始まるのは、縄文時代の早期からです。クリやクヌギなどの落葉広葉樹を柱などの木材として用いて、カヤの屋根を作りました。暖房や調理のための炉が、床の中央にありました。
そうした竪穴式住居を、飲み水が得やすく、見晴らしの良い台地にいくつも作って集落で生活しました。
縄文時代の早期の土器は、撚糸文土器(よりいともんどき)から無文・厚手撚糸文土器、沈線文土器、条痕文土器のように移り変わっていきます。八ヶ崎遺跡では、早期の初めに出現する撚糸文土器が出土しています。
【幸田貝塚は、東日本を代表する縄文時代前期の大規模な集落遺跡】
市内北部にある幸田貝塚は、縄文時代前期の大規模な集落の跡として広く知られています。現在は公園として整備されており、一見ではその面影はないものの、かつての発掘調査では竪穴式住居跡が百五十軒以上も見つかっています。それでも遺跡の十五パーセントほどの発掘でしかなく、全体ではその数倍の住居跡が見つかる可能性があるとされています。
幸田貝塚では、竪穴式住居の基本形とともに、生活道具なども出揃っていました。「縄文の森」で見られる石皿と磨石も、この幸田貝塚で出土しています。
【上本郷遺跡や貝の花遺跡で発掘された竪穴式住居をもとにして 復元されている「縄文の森」】
竪穴式住居は、松戸市立博物館の野外展示で実際に見て入ることができます。復元されている竪穴式住居は三棟で、それぞれ「貝の花貝塚」や「子和清水貝塚」、「上本郷貝塚」で見つかったものが基になっています。定休日を除いて、いずれか一棟で縄文時代の生活などを解説してもらえます。
復元された竪穴式住居の周囲には、落葉広葉樹や常緑広葉樹が植えてあり、縄文時代後期の景観に近い状態が再現されています。
【下水(げす)遺跡などでは後期の土器が出土】
縄文時代の後期には、魚やその他の水産生物を捕獲する漁労活動がさらに盛んとなります。松戸市では、「貝の花貝塚」が後期の代表的な貝塚ですが、「下水遺跡」からも縄文時代の住居跡や土坑、炉穴、かめ、石皿、石斧、土器など、さまざまなものが見つかっています。
この下水遺跡からは、小さなものですが、動物形象突起など、土偶の破片も数点出土しています。
【市内ではあまり見られなくなる晩期以降の土器】
縄文時代も後期になると、寒冷化が進みます。
それとともに、中期に最大となっていた海面上昇が、今度は海面下降により海が後退していきます。自然環境に頼る食料の入手は徐々に困難となっていき、人口は減少傾向となります。松戸市内の遺跡で晩期以降の土器などが見られなくなるのは、その影響と考えられます。
次の弥生時代になると、九州方面から農耕文化が入ってきますが、この頃の松戸市内の遺跡はあまり見つかっていません。 (かつ)
■参考図書/「小金地域の歴史」「東葛流山研究」「松戸の歴史案内」「縄文時代の歴史」「わが街河原塚いまと昔の物語」「松戸市史」「松戸史談」 ※イラストはイメージです。
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