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地名のはなし

2025年2月21日 第728号

 地名には、地形や歴史的な出来事、人々の思いがこもったものなどさまざまないわれがあります。この場所はどんないきさつで今の地名になったのかな?昔はどのようなところだったのかな?そんなことを思いながら、街をながめてみましょう。

松戸は水戸街道三番目の宿場町。1020年頃、上野介菅原孝標の娘が書いた『更科日記』の中に、『…しもつさの國と武蔵との境にある太井川とう云うが上の瀬、まつさとのわたりの津に泊まりて…』とあります。まつさとのわたりは、現在の矢切の渡しあたりと思われます。その「まつさと」が松戸になったと言われています。

松戸神社

 千住、新宿、松戸に続く、水戸街道四番目の宿場町。街道沿いには大名や幕府の公用旅行者、公家や高僧などが泊まる本陣、本陣の予備施設の脇本陣、問屋場、そして旅籠や商家が立ち並び、たいへん賑わったと言います。「小金」という地名は室町時代からある古いもので、もともと松戸市ではなかったのですが、昭和に入ってから編入されました。

 江戸時代にはすでに三ケ月村としてあったところで、室町時代には「みこつき」と呼ばれた歴史ある地域です。三ケ月は三日月のことで、千葉氏の家紋「月星の紋」に由来すると言われています。三日月神社には、「霊峰月山(山形県)から『月の神霊が宿る石』を背負い持ち帰った」と由緒沿革に書かれています。

 人口が増えてくると農耕地が足りなくなります。そこで行われたのが新田開発でした。中でも慶長十年(1605)から元和、寛永にかけての新田開発は大規模なもので、主水新田はそのひとつ。主水の名前は、新田開発者の名前によるものです。周辺は田畑が残るのどかなところで、まこも池と呼ばれるため池では、釣りを楽しむ人の姿がありました。

主水新田のまこも池

 一六九万三二七二㎡。常盤平団地の広さです。昭和三十五年(1960)五月に入居が始まりました。常盤平は、昭和三十七年(1962)からの地名です。この地には、「子和清水」という伝説があります。昔、酒好きの老人がいた。外から帰るといつも酒に酔っている。息子があとをつけてみると泉をうまそうに飲んでいる。ところが息子が飲んでもただの水。「親はうま酒。子は清水」というおはなし。

子和清水
二十世紀梨のモニュメント

 「二十世紀が丘」を冠する地名は七つあります。昭和五十六年(1981)、町営地番整理でできた名前ですが、その中のひとつが、二十世紀が丘梨元町。ここで二十世紀梨が誕生しました。明治二十一年(1888)、松戸覚之助がごみの中で芽を出している梨の木を大切に育てて実ったものが、のちに二十世紀梨と命名されたみずみずしい梨でした。

下総国の守護大名、千葉氏の一族だった高城氏。その支配は、現在の流山、柏、鎌ヶ谷、沼南、そして松戸の大部分、市川、船橋の一部と、広範囲に及びました。その高城氏の居城があったのが大谷口。「城郭の南面に大きく開いた谷頭の出入り口」のことだと言われています。現在は閑静な住宅地。大谷口歴史公園が当時の面影をひっそりと語っています。

小金大谷口城跡

 高城氏が大谷口の前に城を築いたのが根木内。後に小金城ができるまで、高城氏の本拠地でした。根木内城は、東西を谷に挟まれているので、縦長の形状だったようです。土器類や、常滑や瀬戸美濃産の椀皿類など国産のもののほか、輸入陶磁器類が出土。サンショウやイネ、オオムギ、コムギなどの種子も見つかっています。

 紙敷、和名ヶ谷、大橋、秋山、高塚新田、河原塚、串崎新田、田中新田の八つの集落からなる八柱村から来ています。新京成線とJR武蔵野線が交差する駅があり、近くには八柱霊園があります。ここは都立の霊園で、東京ドーム二〇個分の広さがあるのだとか。講道館の嘉納治五郎、詩人の西條八十が、ここに眠ります。

 明治政府は全国から東京に集まってきた人々に、下総牧に土地を与えて入植開墾させることにします。入植者には三か年の衣食住を保証したり、土地屋敷地を与えたりしました。その入植順が、初富、二和、三咲、豊四季、五香六実、…と開墾の地名となりました。この辺りに数字が付く地名が多いのはそのためだったのですね。

 下総台地の西端にある岩瀬。台地の中央付近の低地から江戸川に向かって流れ(瀬)があり、一方で、成田層から褐鉄鉱岩盤が出土するという土地です。このことから、「岩」と「瀬」が合わさって岩瀬という名前になったといいます。明治期、ここで初めての競馬が開催され、後に陸軍工兵学校、さらに千葉大学となり、現在は聖徳大学や公園、裁判所などがあります。

岩瀬からの風景

 「丁度海原に七重八重とつき出た岬のような観があったことから称されるようになった」とのこと。ここは台地で、北側には多くの谷津田があり、それぞれが細長く食い込んでいるので、そのように見えた形跡があるといいます。以前北部市場があった場所に、テラスモール松戸が誕生し、新たなショッピングスポットとして賑わいを見せています。

 永禄七年(1564)、矢切、栗山、国府台で、小田原の北条氏康・氏政軍と安房の里見義弘軍の激しい合戦が行われました。国府台合戦です。家は焼かれ、田畑は踏み荒らされ、人々は逃げまどい、人足に駆り出される人もいました。この地の人が弓矢を呪うあまりに「矢切り」「矢切れ」「矢喰い」の名が生まれたと言います。

矢喰村庚申塚
旭町記念碑

 三百年以上前から、穀倉地帯として、また鴨狩の名勝地でした。ところが一度豪雨となると、洪水が起き、船で行き来する事態になることもありました。一方、東京のベッドタウンとして人口が急増してきた松戸市にあって、土地改良は必然的なことでした。地主たちが話し合い、段階を経て改良を重ねたこの地を、将来の繁栄を願って「旭町」と命名しました。
(ミイ)
※地名の由来には諸説あります

◎参考文献/
『千葉 地名の由来を歩く』谷川彰英 ベスト新書 『松戸の歴史散歩』千野原靖方 たけしま出版
『新京成電鉄ガイド』崙書房編 崙書房 『松戸の歴史案内』松下邦夫 郷土史出版 『角川日本地名大辞典』 『松戸市史』

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