2023年7月21日 第690号
鎌倉幕府は、源頼朝の奇跡的逆転劇によって始まりました。そのきっかけを作ったのが、下総国千葉郡千葉郷を拠点としていた千葉常胤(つねたね)です。源平合戦や奥州合戦などにも参戦し、千葉常胤はそうした功績で全国二十数カ所もの所領を獲得することになります。後に、所領は六人の子に分割されて受け継がれます。当時、「風早郷」と呼ばれていた、現在の上本郷を中心としたその所領は、千葉常胤の六男・胤頼(たねより)の管轄する公領の一部でした。それを継いだのが、のちに風早四郎を名乗る、胤頼の四男・四郎胤康(たねやす)でした。
鎌倉幕府の成立に貢献した千葉常胤の孫
創始者の平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱の火の手が全国各地で上がったとき、伊豆国に流されていた源頼朝もわずかな手勢で挙兵しました。しかし、あっけなく鎮圧され、現在の千葉県にあった安房国(あわのくに)へと逃げ落ちることになります。このときに、いち早く馳せ参じたのが、千葉常胤(つねたね)でした。直後に、千葉常胤の又従兄弟である上総広常(かずさひろつね)も駆けつけ、これを知った関東各地の武士も続々と源頼朝の陣営に加わってきました。緒戦の大敗北から一転、奇跡的な逆転劇を成し遂げた、源頼朝による鎌倉幕府の歴史が始まったのです。
その後、源頼朝の麾下で活躍した千葉常胤は、武士団の重鎮として優遇されるようになります。千葉常胤の六人の子息たちも「千葉六党」と称され、千葉氏は大きく発展します。
本家の当主を継いだのは、長男の千葉胤正(たねまさ)です。次男の師胤(もろたね)は、相馬御厨(そうまみくりや)を中心とする下総国相馬郡一帯を譲与され、相馬師常(もろつね)と称して活躍します。三男は、千葉郡武石郷を任され、武石胤盛(たねもり)となります。四男は、現在の千葉県成田市にあった松子城(大須賀城)を本拠とした大須賀胤信(たねのぶ)です。五男は、葛飾郡国分郷を譲与されて、国分胤通(たねみち)を名乗ります。六男は、須賀山城(千葉県香取郡東庄町笹川)を根拠地として、東胤頼(とうたねより)となります。
安房国へ逃れた源頼朝に加勢することを、父である千葉常胤に強く主張したのは、六男の六郎胤頼だったとされます。一ノ谷の戦いや奥州合戦などにも加わっており、源頼朝の上洛にも随員しました。和歌などの文芸にも通じていたこともあり、父親の千葉常胤よりも高位の従五位下を贈られています。
真の「武者の世」を招いた「承久の乱」で活躍
その東胤頼の四男が、のちに風早四郎を名乗る、四郎胤康(たねやす)です。
東胤頼の嫡子は平太重胤で、東氏の二代目・東重胤(しげたね)となりました。父の東胤頼と同じく、和歌の才に優れていて、その子孫にも多くの歌人が生まれ、歌道の名家として栄えました。なかでも室町期の東常縁(つねより)が、よく知られています。
東重胤の子である六郎胤行は、やはり和歌の素養もありましたが、鎌倉幕府の末期に起きた「承久(じょうきゅう)の乱」でも活躍し、その功績によって美濃国郡上郡山田庄(岐阜県)を所領として、その子の代に美濃東氏となっています。
この「承久の乱」には、風早四郎も出陣しています。鎌倉時代研究の基本史料として知られる「吾妻鏡」では、宇治合戦において敵一人を討ち取り勲功を賞せられた武士として、「風早四郎」の名が記されています。同じ千葉一族では、東胤頼の次男・木内胤朝の子である木内次郎や、千葉常胤の弟・椎名胤光(たねみつ)の孫である椎名弥次郎などが、同様の功を上げています。千葉氏の若き第六代当主である千葉胤綱(たねつな)が、北条泰時(やすとき)のもとで上洛軍の東海道大将だったこともあり、一族の多くが参戦したようです。
宇治は、瀬田とともに、鎌倉幕府方の勝利を決定づけた合戦となりました。功を焦った足利義氏(よしうじ)や三浦泰村(やすむら)が先走ったことで一時は退却を強いられますが、幕府方の決死の渡河や戦いぶりで戦況は逆転。ついには後鳥羽上皇の官軍を敗走させ、京の都へと迫ったのです。
源氏による鎌倉幕府は、初の武家政権でしたが、その支配は東国まででした。西国は依然として朝廷のもとにあり、権力は二分されていました。この関係を大きく変えたのが「承久の乱」でした。後鳥羽上皇が敗れたことにより、朝廷は幕府の介入を受けるようになり、天皇も幕府の意向で決まるようになりました。
上本郷館跡に祀られたとされる「風早神社」
風早氏の名は、「承久の乱」以前の「真名本蘇我物語」の中にも見られます。そこには、源頼朝の那須野の狩りに際して、野生動物を追い出したり、射手のいる方向に追い込んだりする役割の勢子(せこ)を献上したと伝えられているので、風早氏の本拠地であった「風早郷」は、那須から鎌倉に至る水上交通に沿ったところに位置していたと考えられています。
風早郷の痕跡は、松戸市上本郷にある風早神社に見られます。この風早神社は小高い場所に建立されており、敵や動物などの侵入を防ぐために築かれた土塁らしきものが周囲に見受けられます。ふだんは鎌倉で務めていた風早氏でしたが、この風早神社のあったところに居(上本郷館)を構えていたと思われます。
風早氏の治めていた風早郷は、かつて上本郷と呼ばれていた北松戸を含む新坂川沿いあたりを中心に、「21世紀の森と広場」のある千駄堀から大谷口、中金杉付近までの広さだったと推測されています(松戸市域くらいの広さだったという説もあります)。
鎌倉幕府で重用されていた千葉一族である風早氏は、鎌倉に居住して幕府に奉公していました。ただし、鎌倉末期以降の動向は不明で、当時を伝える史料にはその名が見当たらなくなります。鎌倉幕府での政争に巻き込まれたのか、あるいは北条氏と命運をともにしたのか、その理由はわかりませんが、「風早郷」自体は、鎌倉時代に続く南北朝時代にも公領として存在しています。
風早郷の中心地と思われる「上本郷」には、
風早にまつわる伝説がいくつも残る
風早氏の上本郷館のあったとされる「上本郷」の「本郷」には、風早郷の中心地という意味があります。この上本郷には、風早氏にまつわる伝説がいくつも残されています。
その一つに、上本郷でトウモロコシを植えると不幸になる、というものがあります。戦で敵に追われていた風早氏が、背の高いトウモロコシ畑に隠れることで命拾いしたものの、その際に鋭い穂先が目に刺さって隻眼になってしまったからだそうです。
有名な八百比丘尼(やおびくに)の伝説もあり、それによると風早神社の近くに住んでいた村人が、もらった人魚の料理をそれと知らずに娘に食べさせてしまい、その娘が八百年も生きたという話です。
風早神社には、その影が江戸川まで届いたという大杉の伝説もあります。当然ながら、その大きな影で日のあたりの悪くなる田んぼでは米の出来が悪くなりましたが、巫女の占いに従ってその米を風早神社に供えるようになってからは豊作が続くようになったそうです。 (かつ)
■参考図書/「千葉一族入門事典」「南北朝の動乱と千葉氏」「松戸市史」「歴史人」「歴史街道」「小金地域の歴史」「松戸の寺松戸の町名の由来松戸の昔ばなし」「新京成電鉄沿線ガイド」
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