2022年7月8日 第665号
鎌倉幕府を創設した源頼朝(みなもとのよりとも)ですが、当初の挙兵はうまくいきませんでした。平家方によってあっけなく鎮圧されてしまい、千葉県の房総半島へと逃げ延びることになります。そんな源頼朝に助勢するべく駆けつけたのが千葉常胤(ちばつねたね)です。千葉常胤の又従兄弟である上総広常(かずさひろつね)の加勢もあり、形勢は源頼朝に傾き始めます。これを見て、関東各地の武士も続々と源頼朝の陣営に加わり、ひと月あまりで源頼朝は鎌倉に腰を据え、鎌倉幕府を形作っていきます。
【大逆転劇のきっかけを作った千葉常胤の子孫が、千葉頼胤(ちばよりたね)】
千葉常胤は、下総国府(現在の市川市国府台)で源頼朝と合流しています。千葉常胤が率いていたのは三百余騎に過ぎませんでしたが、苦境にあった源頼朝とっては、強く心に感じ入るものがあったことでしょう。
その後、上総広常の軍勢が加わり、そうした状況を知った武蔵国(むさしのくに、現在の東京都や埼玉県)の武士たちも次々に馳せ参じて、源頼朝の兵力は、鎌倉に入る頃には三万余騎にも膨れ上がったと伝えられています。
それからも、千葉常胤は東奔西走する働きを見せ、源頼朝の厚い信頼を得ます。
源義経(みなもとのよしつね)の没落後には、京都の治安の回復にも力を尽くします。特に何を行ったというわけではないようですが、源頼朝が信頼する千葉常胤が入京することで、武士たちの規律が正されたとされます。
源義経の件で源頼朝に背き続けた奥州藤原氏の討伐でも、千葉常胤は東海道大将軍に任命され、源頼朝の軍勢とともに、藤原泰衡(ふじわらのやすひら)を平泉まで追い詰めて滅ぼします。
こうした数々の貢献で、千葉常胤は下総国(しもうさのくに、松戸を含む千葉県北部と茨城県西部を中心とした地域)のほかに、全国のさまざまな土地に所領を有するようになります。遠くは九州の備前小城郡(現在の佐賀県小城市)にも領地を持ちます。この小城郡には、千葉氏の家紋を思わせる「三日月」という名の村がありました。
【千葉氏家紋と地名、神社仏閣、文献などから推測される、馬橋城の存在】
三日月は、千葉氏の家名を継ぐ者が使う家紋「月星紋」の図案に含まれます。「三光紋」とも呼ばれる月星紋は、日と月と星の三つの光を図案で表します。その中の月が、三日月で描かれるのです。
馬橋城があったとされる馬橋駅の北東には、三日月神社があります。当時は「小金城」と呼ばれた城内にあった祠が、三日月神社の起源とされていて、現在もその地域は「三ケ月」と呼ばれています。
すぐそばの二ツ木には、千葉氏の守護神が祀られる蘇羽鷹神社があります。この蘇羽鷹神社の南西方向に、千葉頼胤の手で開山されたと伝えられる大日寺(現在は萬満寺)がありました。
奈良時代の頃から、北東側は鬼門、その反対方向にあたる南西側は裏鬼門とされ、魔除けを配することがありました。平安京では、鬼門である北東側には延暦寺などの寺社を、裏鬼門となる南西側には石清水八幡宮を配置したと言われます。江戸城もこれにならい、鬼門の方角に寛永寺(上野)などを、裏鬼門の方角には増上寺(港区芝)などを配しています。
現在、城の痕跡は何ひとつ確認できませんが、こうした地名や神社仏閣の位置関係から、鬼門の蘇羽鷹神社と、裏鬼門となる萬満寺(かつての大日寺)を結ぶ線上に、馬橋城があったのではないかと考えられています。
古くからの事件などが記されている貴重な史料である「本土寺過去帳」からは、馬橋城がのちに千葉氏一門の高城氏の居城となっていたこともうかがえます。
なにしろ城跡がまったく残されていないので、馬橋城がどのくらいの規模のものであったのかはわかりませんが、周辺の時代背景から、千葉常胤の子孫である千葉頼胤が馬橋城を築いたのは間違いなさそうです。
【「慈悲に過ぎる」忍性との交流が大日寺(後の萬満寺)の開山につながる】
関東地方の古くからの歴史を記した「鎌倉大草紙」には、源頼朝から続く源氏の三代将軍と、千葉氏一門の菩提を弔うべく、千葉頼胤が大日寺を開山したことが記されています。
この大日寺の開山に尽力したのが、当時は筑波山付近の三村山極楽寺にいた良観房忍性(りょうかんぼうにんしょう)です。
良観房忍性は、関東地方を中心に布教を行い、同時に貧民救済などの社会事業に貢献しました。その拠点となっていたのが三村山極楽寺でした。そこから鎌倉幕府の本拠地である鎌倉にも足しげく通っており、のちに鎌倉極楽寺を開山します。その道中にあったのが、千葉頼胤の居た馬橋城です。
良観房忍性は、東大寺の戒壇院で、正式の僧となるために必要な戒律を授けられています。この戒壇院は、源頼朝の命で千葉常胤が再建に助力しています。そのことも含めて、千葉常胤以来、鎌倉幕府と密接な関係にあった千葉頼胤とは、おそらく少なからずの交流があったと考えられます。千葉頼胤が大日寺の開山において、良観房忍性を招いたのは、ごく自然の成り行きだったのでしょう。
良観房忍性は、寺院や仏塔を数多く建立しました。経典などの書写や輸入も積極的に行っています。架橋や道路の造成などの社会活動も数知れず、「馬橋」の名の由来とされる橋も良観房忍性によるものだと伝えられています(第621号「ほんとにあるのね♪馬橋駅の『馬橋』」下のQRから読めます)。その生涯に渡る慈善救済活動は、師の叡尊上人から「慈悲に過ぎた」と言わせるほどだったとされます。
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【蒙古襲来で出陣した頼胤は、馬橋城に戻ることなく九州で没す。】
千葉頼胤と良観房忍性が大日寺の開山建立を成してから十数年後、いわゆる「蒙古襲来(元寇)」があります。
チンギス・ハーンが築いた人類史上最大規模のモンゴル帝国は、フビライ・ハーンの時代には中国に元朝を建てます。その元が、日本に国交の樹立を求めたのですが、日本側は返事をしませんでした。あえて無視したわけではなく、それまでも中国や朝鮮半島の王朝に対してそうしていたことがあり、当時の日本としては珍しくない対応だったようです。
元にしてみれば不服で、二度の「蒙古襲来」につながりました。
元からの国書を何度も黙殺していたことから、当初から鎌倉幕府内にも元からの侵攻を懸念する声がありました。そのため、九州や中国地方に所領を持つ武家に対しては、「蒙古襲来」に備えるよう指示が出ていました。
九州の備前小城郡にも所領のあった千葉頼胤もそれに従っていて、最初の「蒙古襲来」で手傷を負います。
それがもとで、馬橋城に戻ることなく、九州の地で生涯を終えることになりました。その遺骨は、小城の三間山円通寺とともに、千葉へ移された大日寺にも安置されたと伝えられます。 (かつ)
■参考図書/
「千葉一族入門事典」
「源平合戦と千葉氏」
「松戸の歴史案内」
「松戸史談」
「歴史街道」
「南北朝の動乱と千葉氏」
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