2022年9月2日 第669号
平安時代は、平安京のあった京都が中心でした。平将門(たいらのまさかど)の祖父である高望王(たかもちおう)は、その平安京に都を移した桓武天皇(かんむてんのう)の血を引く皇族でしたが、当時は藤原氏(ふじわらし)が全盛であったため、中央で要職などにつくことはできませんでした。平(たいら)の姓となって、東国の坂東(ばんどう)の地で行政官を務めることになります。平将門は、この坂東で生まれ、この坂東で散った伝説的な武将です。松戸は、その坂東にあり、現在の紙敷にも平将門の上屋敷があったとされます。
【古代国家権力に反旗を翻した平将門】
東国におもむき、平高望(たいらのたかもち)となった高望王は、その地で下総国(松戸を含む千葉県北部と茨城県西部を中心とした地域)を中心に、周辺地域を治めるようになります。いわゆる「坂東」と呼ばれた、現在の関東地方一帯です。高望王には十人の男子があり、その死後は、それぞれが坂東の地を分け合って統治しました。
下総国を治めたのは、平将門の父である平良将(たいらのよしまさ)です。将門は、そこで生まれ、坂東で育ちました。坂東の地と人が、平将門という伝説的な武将を作り上げたのです。
ただ、当時は中央集権の時代でした。ほぼすべての権力が中央である京に集中していたことから、将門の父・平良将は、高望王の息子として、京への未練が少なからずあったようです。将門をはじめとして、自身の幼い子どもたちを京へ上らせて、当時の左大臣であった藤原忠平(ふじわらのただひら)のもとで、貴族としての生活を学ばせていました。
平将門は、坂東においては、類まれないほどの高い身分の者として扱われていたと思われますが、都である京においては、天皇の血筋であっても、平の姓を持つ武士に過ぎません。そうした京での経験は、のちの将門にどのような影響を与えたのでしょうか。
平将門が下総国に戻ることになったのは、父である良将の急死により、その所領を受け継ぐことになったからです。将門がまだ十代半ばだったことから、おじの平国香(たいらのくにか)や平良兼(たいらのよしかね)が後見人となりました。
これらの後見人たちとの所領をめぐってのもめごとが、いわゆる「平将門の乱」へとつながっていきます。京をふるえあがらせ、古代国家権力に反旗を翻した、とされる「平将門の乱」は、一族間の私闘が始まりだったのです。
同じころに瀬戸内海のほうで、「藤原純友(ふじわらのすみとも)の乱」が起きたことから、二つの乱を総称して「承平天慶の乱」とも呼びます。平将門と藤原純友がしめしあわせたという説もありますが、どうでしょうか。ともあれ、この二つの乱は、源氏と平家の台頭のきっかけともなりました。
【上屋敷(かみやしき)から神敷(かみしき)、そして紙敷に】
兄弟たちと領地を分けて治めるようになった平将門は、本據豊田(現在の茨城県常総市)に本邸を構えます。もともとは父である良将の館があったところだったようです。
平将門の上屋敷があったとされる紙敷は、利根川をはさんだ反対側になります。上屋敷があったということで、そこから戦国時代には「神敷」と呼ばれるようになっていたようです。さらに「紙敷」となった、とされています。ちなみに、以前は東松戸のあたりまでが「紙敷」と呼ばれていました。
さて、「平将門の乱」のきっかけとなった一族間の私闘ですが、将門の正妻の父とされる平真樹(たいらのまき)と源護(みなもとのまもる)との領地問題がそもそもの原因とされます。この仲裁を引き受けていた将門を、源護の子らが襲います。突然の襲撃でしたが、その気性から将門らは逃げることなく応戦し、源護の子らを次々に討ち倒します。このときに、源護側についていた平国香も巻き添えで死んでしまいます。
仕掛けた側が敗れた結果とはいえ、坂東に生きる者としては、なにもしないわけにもいきません。平国香の弟で、源護の娘を妻としていた、平良正(たいらのよしまさ)が将門を討とうとしますが、迎え撃たれて敗走します。
これではおさまらない平良正は、今度は兄弟の平良兼も巻き込んで、平国香の子である貞盛(さだもり)とともに平将門を攻めます。将門は、これも受けて立ち、何度も撃破してみせます。これらの合戦が、平将門の武名を近隣諸国にとどろかせることになります。
平将門におされる源護側の訴えによって、一時は朝廷の介入も考えられましたが、互いに京へ上って弁明したことで、地方豪族の紛争として片付けられました。
しかし、その直後に平将門の妻子が、本據豊田へ侵入してきた平良兼の手によって、現在の深井地蔵尊あたりで斬殺されてしまいます。
一族間の紛争は激しさを増し、攻勢に転じた平将門は、平良兼の領地であった下野国(現在の栃木県)や、平貞盛の常陸国(現在の茨城県の大部分)なども手に入れ、ついには東国で彼に刃向かう者は無くなっていきます。
【平将門が創建したとされる紙敷の妙見神社】
家柄もさることながら、武勇に優れており、さらに親分気質のようでしたから、平将門は周囲から何かと頼られる存在でした。「新皇」を宣言して、中央政府と対立することになったのは、そのような性格が災いしたのかもしれません。謀略説もあるのは、父を殺され、行き場を失っていた、平貞盛の影が見え隠れするからです。
ことの始まりは、武蔵国(現在の東京都と埼玉県のあたり)での争いでした。その当事者の一人であり、朝廷に不満をいだいていた興世王(おきよおう)が平将門を頼って下総国に逃げてきたのです。
平将門がこれを助けると、今度は国と納税でもめていた藤原玄明(ふじわらのはるあき)が駆け込んできます。またもや仲裁に入る将門でしたが、国側の行政官はおじの藤原維幾(ふじわらのこれちか)でした。すなわち、平貞盛にとってもおじであり、親密な間柄でした。もちろん藤原玄明の引き渡しを求めるのは正当でしたが、その際に兵を引き連れていたことから、将門は一戦を交えてしまいます。これが国家に対する反乱行為とみなされます。
追い込まれた平将門は、坂東一帯を勢力下に治め、妙見八幡大菩薩の神託を得たとして「新皇」を宣言します。坂東で多く見られる妙見は、将門の守護神であり、紙敷の妙見神社も将門の創建と伝えられます。
新皇として独立国家を宣言した平将門の暴挙を鎮圧するべく、朝廷は討伐軍を東国へと向かわせます。平貞盛は、それに先んじて、母方のおじの藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の助力で将門を急襲し、さらに追撃します。将門は精兵をもって最後まで抵抗しますが、ついには討ち果たされます。 (かつ)
※参考図書/「東葛飾の歴史地理」「平将門論」「楽しい東葛地名事典」「歴史街道」
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