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水戸藩最後の藩主、徳川昭武が晩年を過ごした戸定邸

2020年10月9日 第623号

松戸駅近くの小高い丘の上にあるのが、水戸藩最後の藩主である徳川昭武が晩年を過ごした「戸定邸」です。大政奉還を行った江戸幕府最後の将軍として知られる徳川慶喜の年の離れた弟であり、時代の大きな変化を十代半ばで体験することになりました。ヨーロッパに二度留学するなど、多才で多趣味なことでも知られています。二十九歳で隠居し、自ら建てた戸定邸で晩年を過ごしました。

■江戸幕府最後の将軍の弟

幕末は、アメリカのペリーが四隻の軍艦を率いて東京湾の浦賀沖に現われた、いわゆる「黒船来航」に始まったと言われます。事実、江戸幕府は大いに揺れ、その権威は失墜し、薩摩藩や長州藩、土佐藩などを中心とした倒幕運動につながっていきます。
 江戸幕府にとっては、間の悪さも災いしました。「黒船来航」と同じ月に第十二代将軍の徳川家慶が病死してしまったのです。江戸幕府の将軍職は世襲だったので、第十三代将軍には息子の家定がつきましたが、彼はもともと病弱でした。就任してから五年後に亡くなってしまいました。次の第十四代将軍になったのは、十二歳の家茂です。前将軍の家定にもっとも近い血筋だったからです。もちろん実権などはほとんどなく、将軍後見職が政治を代行しました。この家茂も将軍就任の七年後に二十歳で病死しています。
 続く第十五代将軍も、血筋からいけばわずか三歳の家達がつくはずでしたが、最高位の老中などの推薦もあって、当時二十九歳だった徳川慶喜が就任しました。第十二代将軍の徳川家慶の死後十二年経ち、改革を主導する将軍が誕生したのです。
 徳川慶喜は、前将軍の家茂の代に将軍後見職も経験していて、情勢の変化も肌で感じていたのでしょう。将軍として、外国との交流を推し進めていきます。
 その一環として、若干十三歳の弟の昭武を、フランスで開催されたパリ万国博覧会に、将軍の代理として派遣します。四十以上の国が参加する博覧会で来るべき世界を見せたかったのでしょうか。もしかすると、薩摩藩や長州藩が倒幕から討幕へと傾いてきていたことで予想された内乱に幼い弟を巻き込みたくなかったのかもしれません。いずれにしても、十代半ばの昭武は、大政奉還から戊辰戦争へといたる動乱期を、フランス留学で過ごすことができたのです。

■戸定邸から見えた常磐線

戸定が丘歴史公園入口

徳川昭武が帰国すると、待っていたのは、兄の徳川慶喜による江戸幕府ではなく、明治新政府でした。そのまま水戸藩主となりましたが、同じ年に版籍奉還が実施されて知事に変わったので、結果的に最後の水戸藩主となりました。昭武が十五歳のときです。
 その二年後には廃藩置県が行われて、知事職からも退くことになります。以後、陸軍士官やフランス再留学などを経て、二十九歳で隠居を決めます。
 戸定邸に移り住んだのは、その翌年です。
 現在は、戸定邸の眼下に常磐線を見られますが、徳川昭武が住み始めた頃は、江戸川による人や貨物の輸送が一般的でした。松戸にはその船着場がいくつもあったことから、幕末から明治へと移行する混乱期を除いて、活況が続いていました。明治十年には、木造ではありましたが、外輪蒸気船の
「通運丸」も就航され、大量輸送も可能となりました。両脇に大きな外輪をつけて進む姿は、当時の人たちにはとても興味深いものだったようで、浮世絵などのモチーフともなりました。ちなみに、この「通運丸」を就航させたのは、現在の日本通運の前身である「陸運元会社」です。
 当時の江戸川には橋もかけられていなかったことから、松戸から金町への「渡し」も盛況だったようです。今も残る「矢切の渡し」は、当時から小規模で運営されていたものでした。明治三十九年発表の悲恋小説「野菊の墓」で、矢切が舞台になっていたことにより、広く知られるようになりました。
 水運の活況ぶりは、徳川昭武が戸定邸に移り住んでからもしばらく続きましたが、土浦から田端までの鉄道が開通し、松戸にも停車するようになると、水運は急速に衰退していきます。

■松戸町から松戸市へ

 当時の常磐線は単線であり、本数も少なかったので、東京への日帰りも大変でしたが、船で半日がかりだったところが二十分あまりに短縮されたことにより、利用者は着実に増えていきました。
 フランスへの二度の留学経験のあった徳川昭武にとって、蒸気船も鉄道も驚くほどのものではなかったでしょうが、明治になってからの松戸の発展ぶりを眼下にするにつけ、思うところは少なからずあったかもしれません。
 明治四十三年、徳川昭武は五十六歳で他界します。兄の慶喜が七十七歳まで生きたことを考えると、早すぎる死と言えます。
 この翌年、江戸川に葛飾橋がかかり、松戸は東京と陸続きになります。鉄道も庶民の足として定着して、東京の住宅事情などから衛星都市として、松戸の人口は増加の一途をたどっていきます。
 増加が加速したのは、およそ百年前に南関東で起こった大地震、いわゆる関東大震災以降です。
この地震はお昼どきだったことで多数の火災が発生し、それが近くに来ていた台風の影響でまたたくまに燃え広がってしまいました。当時の東京の半分近くが焼失したと言われています。千葉県にも被害はありましたが、幸いにも戸定邸を含めて松戸周辺はわずかなものですみました。
 この結果、東京から他の都市や郊外へ人口が流出することになりました。松戸でも住宅開発が進み、松戸から都心部へと通う人が増えていきました。
 関東大震災から三十年後、高木村や馬橋村と合併することで市政への条件を満たした「松戸町」は、「松戸市」となります。以後も周辺の町や村を編入していき、現在の松戸市ができあがりました。
(かつ)

◎主な参考資料
 「松戸市史 下巻」

◆戸定歴史館◆
〒271-0092 松戸市松戸714番地の1
電 話/047-362-2050 FAX/047-361-0056
開館時間/9時30分から17時まで
     (入館は16時30分まで)
※戸定が丘歴史公園は、9時から17時まで入園できます。
休館日/月曜日(祝日の場合にはその翌日)、
    年末年始(12月28日から1月4日まで)、
    歴史館のみ展示替え期間

 新型コロナウイルス感染拡大防止の趣旨をご理解いただき、施設を利用される皆様につきましては、右記の取り組みを実施いたしますので、感染予防へのご協力をお願いいたします。当館の感染症対策についてお知らせします。 (9月4日時点)
今後の感染状況や施設の状況によって、臨時休館させていただく可能性もあります。

◎入館者数の制限
戸定邸:30名以内/歴史館:10名以内
◎来館者の方へのお願い
施設内では「マスク着用」をお願いしております。
◎消毒等
施設入口にアルコール消毒液を設置。
入館時に使用いただいています。
◎入館者の方へのお願い事項
健康チェックシートの記入、提出(入館者、職員等に感染者が出た場合には、保健所へ提出することがあります)
事前の体調確認をご自身で行っていただき、発熱等、症状がある場合は 来館をご遠慮いただいております。施設内では密状態を避け、間隔をあけての行動をお願いしております。
◎施設管理
受付スタッフなど館内の職員、スタッフは、マスクまたはフェイスガードを着用しております。清掃を毎日数回行い、取っ手や手すり、水回り等を消毒しています。職員、スタッフは日々体調管理を行い、体調不良時には出勤を控え るよう指示が出ています。

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