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千葉一族の妙見信仰と、あったかもしれない八ヶ崎城

2021年11月19日 第650号

かつて、千葉県北部と茨城県西部を中心とした地域は、「下総国(しもうさのくに)」と呼ばれました。この下総国などを約五百年にわたって統治したのが、千葉一族です。
 この千葉一族は、妙見を厚く信仰していたことでも知られます。その密接ぶりは、「千葉一族の城郭跡には妙見の痕跡があり、また妙見跡のあるところ千葉一族の城郭跡あり」(松戸史談 第48号「八ヶ崎の今昔・幻の城を追う」より)と評されるほどでした。

【約五百年間、下総国などを統治した千葉氏武士団】

かつての八ヶ崎・妙見宮が合祀されている子安神社

千葉氏の始祖は、平良文(たいらのよしふみ)とされます。いわゆる「平将門の乱」などの争乱のあと、その叔父である平良文が、平将門の所領でもあった下総国の一部を受け継ぎました。その孫の平忠常(たいらのただつね)の代には、その所領は利根川南岸の一帯にまで広がっていましたが、平忠常はさらに房総半島へと手を延ばします(平忠常の乱)。この争乱も、「平将門の乱」と同じく鎮圧されますが、所領の下総国は、子の平常将(たいらのつねまさ)に継承が許されました。平安時代は、貴族の政権下ではありましたが、武士にその実権が移りゆくときでもあり、本来なら所領などは没収されるところですが、すでにそれができないほど政権は弱体化していました。
 下総国に戻った平常将は、千葉氏を名乗るようになります。そのひ孫・千葉常重(ちばつねしげ)の代には、亥鼻城(千葉城)に居を移します。ここから「千葉」という地名が…と続けたいところですが、「大化の改新」の頃にはすでに「千葉」と呼ばれていたようです。
 千葉氏の発展のきっかけとなったのは、源頼朝への助勢です。千葉常重の子・常胤(つねたね)は活躍し、鎌倉幕府が創設されると、千葉一族の所領は全国へと広がりました。
 室町時代以降は、一族の分裂などもあり、紆余曲折があったものの、平安時代の末期から、戦国時代の終わりに豊臣秀吉に敗れて所領を没収されるまで、約五百年にわたって、千葉氏武士団は下総国などを統治しました。このように、同一の所領を、同一の武士団が五世紀以上もずっと治めるのは、全国的にもほとんど例がありません。

金谷寺では俳人・芭蕉の句碑も見られる
金谷寺にある松戸史跡七福神(右から3つ目が毘沙門天)

【妙見菩薩あるところに、千葉一族の居あり】

この千葉氏が守護神として厚く信仰していたのが、妙見です。
 妙見との関係は、千葉氏の始祖である平良文までさかのぼります。伝承では、「平将門の乱」において当初は平将門に加勢していた妙見でしたが、あまりにも好き勝手に振る舞う将門を見限り、平良文の側についたと語られます。房総に逃れた源頼朝が再起する際も、千葉の館を預かっていた千葉常胤の孫・成胤(なりたね)の危機を、妙見が助けたとされます。
 このような戦勝神としての妙見信仰は、関東地方の特徴の一つです。本来の妙見は、農耕神や鎮守神とされ穏やかな姿ですが、千葉で見られるのは、菩薩でありながら甲冑を身につけて剣を持つ勇壮なものです。この妙見を千葉氏武士団の精神的支柱とするべく、前述のような説話が創作されたのです。
 千葉一族の城や館があったとされるところの近隣には、必ずと言っていいほど妙見由来の寺社が見られます。このことから、守護神としての妙見菩薩が、千葉氏武士団にとって絶対的な存在であったことがわかります。

金谷寺本堂左手に松戸史跡七福神が並ぶ
子安神社には「学問の神様」である天神社もある
子安神社の拝殿
千葉一族の守護神・妙見像もある八ヶ崎の金谷寺

【八ヶ崎における妙見信仰と、地形や地名などが、城の存在をうかがわせる】

 八ヶ崎には、妙見菩薩像が本堂に安置されている金谷寺があります。その金谷寺から見て北東の方角には、かつて妙見宮がありました(現在は子安神社で合祀されています)。妙見宮は、文字通り、妙見を守護神としてまつるところです。
 奈良時代の頃から、北東側は鬼門、その反対方向にあたる南西側は裏鬼門とされ、魔除けを配することがありました。平安京では、鬼門である北東側には延暦寺などの寺社を、裏鬼門となる南西側には石清水八幡宮を配置したと言われます。江戸城もこれにならい、鬼門の方角に寛永寺(上野)などを、裏鬼門の方角には増上寺(港区芝)などを配しています。
 八ヶ崎は、一時期、馬橋城があったのではないかと考えられていました。今は三日月神社のあたりが馬橋城跡として有力視されていますが、実際に足を運んでみると、八ヶ崎も城があったとしても不自然ではないと思わせる地形です。鬼門(妙見宮)や裏鬼門(金谷寺)の妙見の存在、そして近辺のかつての地名は、立山(館)や作(柵)など、城を感じさせるようなものでした。武神であり福の神でもある毘沙門天像が、妙見とともに金谷寺にあるのは偶然でしょうか。
 一口に「城」と言っても、観光地で見られるような立派な城は、戦国時代の中期以降のものです。それ以前の城は、自然の地形に手を加えて要害堅固にしていました。人工的な堀や土塁などが多ければ、その痕跡から城跡だとわかりますが、人工的な部分が少なければ宅地開発などで簡単に失われてしまいます。そうした城は、残されている文献などから、その存在を推測するしかありません。
 松戸市を含む下総国は、長く千葉一族の統治下にありました。その間に、本城や支城など数多くの拠点が築かれました。松戸の各所にあったとされるさまざまな城のように、八ヶ崎城と呼べるものが、もしかすると八ヶ崎の地にもあったかもしれません。(かつ)

子安神社入口左手の獅子山
子安神社入口右手の獅子山

■主な参考資料/
「松戸史談」「松戸市史」「千葉氏探訪」「東葛飾の歴史地理」「東葛流山研究」「千葉一族入門事典」

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