2022年1月28日 第654号
かつて、松戸は、房総半島の北部とともに海の底にありました。古東京湾は、九十九里や鹿島灘をも飲み込んでおり、関東平野の奥深くにまで広がっていたのです。松戸は、この古東京湾の中心あたりでした。やがて海面が下がり始め、古東京湾に沈んでいた地表が顔を出します。そこへ活発になっていた火山からの多量の噴出物が堆積しながら下総台地を形作っていきました。
【富士山などの噴火と縄文海進で形作られていった下総台地】
火山の噴火による堆積は、積み重なっている地層から確認できます。関東平野におけるこうした地層は「関東ローム層(関東火山灰層)」と呼ばれています。
関東ローム層はさらにいくつかの層に分かれており、その地質を調べると、それがどの火山からの噴出物であるかがわかります。
旧石器時代、顔を出したばかりの湿った地表に降り積もったのは、箱根や八ヶ岳、御嶽の火山からの噴出物だったようです。その後、富士山や浅間山の噴火が活発となり、その噴出物の堆積で古東京湾は陸地になりました。三浦半島と房総半島も陸続きとなり、千葉県も今よりもひとまわりほど大きかったようです。
縄文時代には、今度は海面が上昇します。松戸にも海水が入り込み、現在の貝塚跡のあたりまでが海となります。
現在のような東京湾の形になってきたのは、弥生時代です。海面が下がり、沈んでいた地表が再び顔を出します。こうして出現した湿地や平地で水田稲作が始まります。
【平安初期にはすでに創建されていた、河原塚の熊野神社】
下総台地の形成に大きく貢献した富士山は、それ以降も噴火を繰り返しました。特に平安時代の初期は活発で、「延暦噴火」と「貞観噴火」が起きました。これらは、のちに「富士山の三大噴火」と言われるもののうちの二つで、特に「貞観噴火」はわかっている限り最大の噴火で、このときに当時の湖は分断され、富士五湖が誕生しました。
河原塚の熊野神社が創建されたのは、ちょうどその頃です。
その本社である熊野三山(熊野本宮大社、熊野那智大社、熊野速玉大社)における熊野信仰の背景には、太古の火山活動があるとされています。風化によって今や失われてしまった熊野の火山ですが、熊野那智大社の「那智の滝」や、熊野速玉大社から見られる巨石などから、その痕跡をうかがえます。熊野三山につながる熊野古道で見られる自然石にも、火山活動で生じたものが含まれています。
【天下泰平と災禍が混在した江戸時代元禄期に創建された、中和倉の熊野神社】
富士山は、江戸時代にも大噴火しています。「富士山の三大噴火」の残り一つ「宝永噴火」です。この「宝永噴火」の直前には「宝永地震」が、その数年前には「元禄地震」が起きています。「忠臣蔵」で知られる江戸時代元禄期は、華やかな元禄文化とともに、凶作や不作、地震などの災禍がいくつも起きた時代でした。
地震と噴火には関連があります。いずれもプレートが沈み込むことで引き起こされるのです。
プレートは、地球の表面を形作っている岩盤です。日本の周辺には四枚の海洋プレートがあり、それぞれのプレートは年に数センチほど動きながら、他のプレートの下に沈み込みます。このときに起こる地殻の破壊が地震につながり、マグマが発生した場合には火山活動となります。
先に述べた「元禄地震」の際には、富士山の鳴動も感じられたと伝えられています。このときにはすでにマグマが生まれており、「宝永地震」の直後に「宝永噴火」が起きたと考えられます。
【江戸時代に起きた浅間山の大噴火をきっかけに創建された、金ケ作の熊野神社】
富士山は「宝永噴火」以降は火山活動を休止していますが、ともに下総台地を形作った浅間山は、今も活火山です。江戸時代天明期には、関東一帯に火山灰をまき散らしました。直後には大雨も降り、大変な被害となりました。金ケ作の熊野神社は、このときに創建されました。
噴火は周辺の家屋などを破壊し、降り積もった火山灰は収穫を奪います。しかし、すべてを奪い去るわけではなく、作物のための栄養分を含む火山灰は、厚く積もって土となり、水はけの良い土を好むネギや大根、キャベツなどの農作物の生育を助けます。
熊野信仰の聖地は、火山が作ったとされます。同様に、松戸のある下総台地も、火山によって形作られました。その恩恵と畏怖の念を抱くことを忘れず、いずれまた噴火すると言われる富士山に向き合う心づもりが必要
であることを、熊野神社が感じさせてくれます。(かつ)
■参考図書/「松戸風土記」「火山入門」「火山で読み解く古事記の謎」「凍った地球」「山と溪谷」「災害史探訪火山編」
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