2024年4月5日 第707号
松戸宿を経て江戸と水戸を結ぶ水戸街道は、参勤交代を行わない水戸藩主が江戸常住だったこともあり、江戸での政務や諸役務を果たすべく、水戸藩士の往来が盛んでした。いわゆる幕末には、幕命よりも勅命(天皇の命令)を重んじる尊攘派が水戸藩で台頭したことによって、江戸と水戸の間に位置する松戸界隈も、この幕府と水戸藩との対立におのずと巻き込まれることになりました。
水戸藩ゆかりの小金宿では、尊攘派の志士が台頭
特に小金宿では、参勤交代を行う大名が宿泊するための本陣の他に、水戸家専用の宿泊所「水戸殿御殿」が用意されるほどの密接な関係にあったので、水戸藩の尊攘激派であった藤田小四郎の筑波挙兵による天狗党に参加する者たちも現れました。
小金の東漸寺に碑の建つ竹内廉之助と哲次郎の兄弟もそんな若者でした。二人は小金町の旧家に生まれ、江戸で千葉周作の三男・千葉道三郎の門人となり、北辰一刀流を修行します。同時期に千葉周作の次男・千葉栄次郎の道場に入門していた渋沢栄一らとも親交を深め、尊攘の思想が培われていったようです。
水戸藩は、徳川御三家でありながら、第二代藩主の徳川光圀が取り掛かった歴史書「大日本史」の編纂から生まれた水戸学の影響により、尊王思想が強くなっていました。ただ、倒幕の意思はなく、幕府の存続のためにも、天皇と将軍の二つの中心を抱える、というものでした。そのため、過激な尊攘派が台頭する一方で、幕府寄りの佐幕派も水戸藩にはありました。天狗党の挙兵は無軌道な行動と捉えられ、水戸藩では尊攘派の勢力が弱まります。
天狗党の乱で、小金から参加した竹内兄弟の弟・哲次郎は戦死
幕府が天狗党討伐を諸藩に発令すると、天狗党はそれを避けながら、水戸家から一橋家の養子となっていた慶喜を頼りに京を目指します。朝廷との仲立ちを請うつもりでした。その途中で何度か討伐軍との交戦もあり、小金から参加した竹内兄弟の弟・哲次郎は戦死します。
ところが、天狗党が頼りにした慶喜は、朝廷に天狗党討伐を願い出ます。水戸藩の前藩主の子息である慶喜に抗うことはできないとして、天狗党はついに降伏します。小金から参加した竹内兄弟の兄・廉之助も捕らえられ、後に自宅謹慎となります。
また、この天狗党の乱の最中に、水戸藩の佐幕派であった佐藤久太郎が、上本郷で斬首されます。その弔いのための「首切り地蔵」が国道沿いにありますが、首から上は、何度付けてもなくなってしまうのだそうです。
徳川慶喜が大政奉還するものの、幕府薩摩藩邸の焼き討ち事件から、戊辰戦争へ
慶喜は、松戸の戸定邸の主だった徳川昭武の兄にあたります。昭武は最後の水戸藩主であり、慶喜は江戸幕府最後の将軍となりました。
それまでに将軍後見職や禁裏御守衛総督などの要職に就いてきた慶喜は、政治的な指導力を備えた将軍でした。政権を天皇に返上する大政奉還の実現は、徳川慶喜だからこその英断でした。
この直前、小金の竹内廉之助は、家族の反対を押し切り、近在の子弟や同志とともに、江戸薩摩藩邸の相楽総三の浪士隊に加わっています。
この浪士隊の計画に応じて栃木・出流山で挙兵したのが、松戸の千葉大園芸学部旧正門脇で処刑された竹内啓(節斎)です。幕府軍に捕らえられて江戸へ護送される途上のことでした。正門脇の小山の中ほどに、その墓があります。
その後も江戸の治安を撹乱し続ける薩摩浪士隊に対して幕府は討伐を決め、その活動拠点となっていた薩摩藩邸を攻めます。これが薩長諸藩への幕府側の攻撃とみなされて、武力で幕府を倒す戊辰戦争へと発展していきます。
竹内廉之助は、相楽らともに官軍先鋒隊「赤報隊」に加わりますが、信州追分での幕府軍との戦いで討ち死にします。
京都を追われた新選組の近藤勇が屯所にした流山の長岡屋(近藤勇陣屋跡)
戊辰戦争の初戦「鳥羽・伏見の戦い」で、新政府軍に敗れた新選組は、海路で京都から江戸へと戻ります。
近藤勇と土方歳三は、新選組と関わりの深い会津で再起を図ろうと、江戸近辺で二百人超の兵を集めて、いったん流山に移動します。そこで屯所としたのが、長岡屋(近藤勇陣屋跡)でした。その敷地に今もある秋元稲荷大明神には、近藤勇が戦勝祈願したと伝えられます。
しかし、数日も経たずして新政府軍に見つかり、包囲されてしまいます。土方歳三は、たまたま屯所を離れていて難を逃れますが、近藤勇は新撰組局長であることが発覚して、三週間後に板橋で斬首されます。
新選組の土方歳三は、松戸宿で一泊してから、小金の大祥寺(大勝院)を経て、北上しながら転戦した末に北海道・五稜郭で戦死
難を逃れた土方歳三は、旧幕府陸軍奉行・大島圭介の率いる反政府軍と行動をともにします。江戸を脱出した兵たちは松戸宿の近辺に分かれて一泊しますが、烏合の衆となっていて、略奪や暴行が行われたようです。小金の野馬奉行・綿貫夏右衛門や商家でも多額の被害にあったと言われます。
その後、小金の大祥寺(大勝院)を経て、会津へと向かった土方歳三は、その途上で宇都宮城の攻略をわずか一日で果たし、優れた手腕を発揮します。
会津に入った土方歳三は、新選組の斎藤一らと合流しますが、東北諸藩で結成されていた奥羽越列藩同盟もすでに破綻しており、抗戦が困難となっていました。
ここで、旧幕府の榎本武揚から、蝦夷地で新政権を樹立する計画を聞かされます。土方歳三は、それに賛同し、函館政権の幹部となります。
元新選組副長の参加で士気の高まった函館軍は、二股口・台場山の戦いで新政府軍を撃退します。しかし、他の方面はことごとく破られ、土方歳三の率いる部隊も五稜郭への撤退を余儀なくされます。
新政府軍の総攻撃はなおも続き、元新選組の兵たちが孤立状態に陥ります。それを見かねて、土方歳三は五稜郭からわずかな手勢で打って出ます。馬上の土方歳三は、そこで銃撃を受けて絶命します。 (かつ)
■参考図書「天下の副将軍水戸藩から見た江戸三百年」「松戸史談」「松戸風土記」「歴史人」「歴史街道」「新編市川歴史探訪下総国府周辺散策」「イラストまつど物語」
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