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水戸黄門の松戸漫遊map

2024年10月18日 第720号

 水戸黄門は、江戸時代の水戸藩主・徳川光圀をモデルにした時代劇で広く知られています。隠居後の光圀が、助さん格さんらとともに日本各地を旅し、悪人を懲らしめる痛快な勧善懲悪劇でした。
 しかし、当時の武士には自由に諸国を旅することなどは許されてはおらず、徳川御三家の一つである水戸藩主であっても、水戸と江戸の往復くらいでした。その途上にあったのが松戸です。

 水戸黄門漫遊記は、特定の作者によって書かれたものではなく、多くの講談師によって口承で語り継がれ、時代とともに発展してきた物語です。そのため、明確な作者は存在しませんが、光圀の人となりがそれなりに反映されているようです。
 たとえば、光圀の隠居先の西山荘ですが、本人が海岸で拾ってきた貝が使われるなど簡素な造りであり、生活もとても質素でした。領内を気軽に出歩くこともあり、その際には前藩主であったことを明かすことなく、気軽に領民に話しかけ、返ってくる言葉に耳を傾けていたようです。隠居後の光圀は、まさに水戸黄門漫遊記さながらの生活ぶりだったのです。

 水戸黄門漫遊記で黄門様のお供をした助さんや格さんにもモデルがありました。佐々介三郎十竹と安積覚兵衛澹泊で、ともに、光圀の編纂した「大日本史」に関わった優秀な儒学者でした。佐々をはじめとする編纂メンバーは、光圀の命でその資料調査と収集のために諸国を旅しました。
 それもあってか、光圀自身が水戸黄門漫遊記のように旅することはありませんでしたが、その伝記や言行録は全国に伝わっています。

水戸黄門自身は水戸街道の往復や松戸での鷹狩程度だった
水戸黄門も延喜式内社だと考えて改装した「茂侶神社」

 光圀自身は、主に江戸と水戸をつなぐ水戸街道を往復していましたが、その道中にある松戸には、鷹狩のために何度も訪れています。
 その際、光圀は栗ケ沢に立ち寄り、そこの神社の由緒に深い関心を抱きました。彼は、その神社の立地や歴史的背景から、平安時代初期に編纂された法典「延喜式」に記載された神社ではないかと考えました。その神社こそが「茂侶神社」です。
 延喜式内社は、歴史的な価値から江戸時代でも高く評価されていました。光圀は、茂侶神社がそれに相当するものではないかと推察したのです。

image photo

 この茂侶神社では、光圀が御神木を「ナンジャモンジャ」と命名したという伝承があります。風早神社にも同様の逸話が伝わっており、どちらも光圀の命名にまつわる話として知られています。
 実をいうと、光圀が命名したとされる「ナンジャモンジャ」の木は日本各地に存在します。いずれの場合も、光圀が「この木はなんじゃ?」とか「この木は何というもんじゃ?」と尋ねたことを、地元の人々が「この木はナンジャモンジャ」と聞き違えた結果、そのまま木の名前として広まったとされています。

風早神社

 水戸家は、将軍家から小金領の一部を鷹場として拝領していました。小金町には水戸家御用御鷹部屋が、小金西新田には水戸家御鷹場役所が設けられており、光圀はそれらを拠点にして、たびたび放鷹を楽しんだようです。
 本土寺の参道脇にあった御都摩の方の墓を、本土寺境内に改葬したのもその頃です。当時は彼女の法名である「日上の松」と呼ばれた一本の古松が生えていただけだったのを光圀が見咎めたようです。
 御都摩の方は、小金領を一時期収めていた武田信吉の生母です。武田姓ですが、実際のところは、清和源氏の流れをくむ武田氏の断絶を惜しんだ徳川家康が、その名跡を継がせるべく、自身の五男に名乗らせたものです。光圀は、その武田信吉の甥にあたります。
 改葬にあたり「日上の松」の根本を掘りましたが、何も出なかったことから、その土を新桶に入れて手厚く供養し、新しい墓地に納めたと云われます。
 その後、光圀は、その本土寺に、広い田畑を寄進し、参道松並木を植林しました。

本土寺
御都摩の方の墓地を「本土寺」境内に改葬
水戸黄門の作った御神体を祀る「七面神社」

 かつての水戸家御鷹場役所の近くにある「七面(しちまん)神社」は、光圀が創建したと伝えられています。
 その御神体は、蛇が木に巻き付いた姿の像で、光圀が自ら作ったとされる「七面大明神」です。
 法華経の護法神である七面大明神は、通常は七面天女とも呼ばれる女人の姿をしているので、光圀の手による「七面大明神」とは直接関わりがないようにも思われますが、光圀は法華経を経典とする日蓮宗を庇護していたとも言われるので、彼なりの独自の解釈が加わった可能性も考えられます。

 今はもう枯れてなくなっているのですが、枝が美しく広がり、全体としてバランスの取れた、樹齢数百年ともされる大きな松の木が、上本郷で見られたようです。
 大人で四抱えほどもある太さの幹の松だったので、おそらく他のものと比べて圧倒的な存在感があったのでしょう。近くの釈迦堂で休息を取っていた光圀が思わず「見事な松じゃのう」と声をかけながら幹をなでたところ、それに応えるかのように、風もないのにその大木がゆらゆらと揺れたのだそうです。それ以来、その松の大木は「ゆるぎの松」と呼ばれるようになりました。
 本福寺の北にあったとされる「ゆるぎの松」は、残念ながら大正時代の末期に枯れてしまい、ついには力尽きて倒れてしまったそうです。

 松戸神社が「御嶽大権現」と呼ばれていたころ、ヤマトタケル(日本武尊)を祀るこの神社を訪れていた光圀は、社殿近くの木立に珍しい白鳥が止まっているのを発見します。光圀はその白鳥を捕らえようとしますが、放った鷹はまったく動こうとしません。
 業を煮やした光圀は、自ら矢を放とうとしますが、弓を持つ手がなぜだかしびれてしまいます。くやしさのあまり、光圀は思わず神殿の扉に矢を向けますが、その矢は不思議なことに真っ二つに折れてしまいます。
 この出来事をきっかけに、光圀はようやく我に返り、神域での不敬を深く恥じ入りました。そして、折れた矢を神前に奉納し、心からの謝罪を捧げたと言われています。

鷹狩で来ていた水戸黄門が白鳥に向けて放った不敬の矢を折った「御嶽大権現社(松戸神社)」

 松戸駅近くの小高い丘に位置する「戸定邸」は、水戸藩最後の藩主である徳川昭武が晩年を過ごした邸宅です。昭武の兄は、大政奉還を行った江戸幕府最後の将軍として知られる徳川慶喜です。
 慶喜は徳川斉昭の七男として水戸藩で幼少期を過ごし、水戸藩で発展した「水戸学」の影響を受けていたとされます。水戸学は、光圀が始めた「大日本史」の編纂事業を背景に成立し、日本の歴史と天皇の権威を重視する思想が特徴でした。
(かつ)

戸定邸

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