2024年7月5日 第713号
富士塚は、日本各地に存在する人工の小さな山で、本物の富士山に行けない人々が代わりに登ったり眺めたりすることのできる場所です。特に江戸時代に流行し、信仰の対象として庶民に広く親しまれました。富士塚の高さは数メートルから十数メートルほどで、石や土を積み上げて作られ、山頂には富士山の神を祀る祠や碑が設けられています。松戸の近郊でも、小さな富士山である「富士塚」をいくつか目にすることができます。
古来より霊山として信仰されてきた富士山
富士山は古来より信仰されてきましたが、それがいつ頃から始まったのかについては、歴史資料があまり残されていないため、はっきりとはわかっていません。ただし、江戸時代以前と現在では、その景観が大きく異なることはわかっています。
大昔の千葉県は、そのほとんどが海の底でしたが、富士山をはじめとする火山から吹き出た土砂や火山灰によって陸地となっていきました。当時の富士山は今ほど大きくなく、現在は山体の中に隠れている小さな古富士から断続的に噴火を繰り返していました。国史などにはその噴火の様子が数多く記されており、奈良時代には当時の朝廷がその沈静化を図るべく浅間大社を祭祀儀礼の中心に位置づけました。
平安時代になると、数回の富士登山を行ったとされる末代上人が、関東の民衆に対して一切経の書写を勧めるようになります。この末代上人は、のちに大棟梁権現として村山浅間神社に祀られます。
江戸時代に成立した富士信仰「富士講」
民衆信仰として富士信仰が広まったのは江戸時代からです。江戸を中心とした関東で流行した、長谷川角行を開祖とする富士信仰運動が主に「富士講」と呼ばれますが、他にも「講」の付く信仰集団や相互扶助組織が見られるように、富士信仰運動全般が「富士講」とされることも少なくありません。
ともあれ、修験道の行者であった長谷川角行の富士信仰の教えは、代々の修験者に受け継がれ、その熱心な指導から関東を中心とした各地域に富士講が徐々に組織されていきます。最盛期には四百講を数えるほどにもなったと言われます。
信仰の対象である富士山への登拝は、富士講にとって大きな行事でした。現在では富士山登山ツアーなどもあってわりと気軽に登れますが、当時は想像もできないほどの時間と費用を要しました。また、当時は女性の入山が禁じられるなど、富士山まで出かけられない人も多かったため、代表する者に祈願を託す「代参制」と呼ばれる登拝も広く行われました。
富士山を写した模造富士「富士塚」
富士信仰に基づく富士講が飛躍的に普及する契機となったのが、庶民の苦しみを救おうと食行身禄が行った断食入定です。富士山の雪水を飲むだけの三十一日間の苦行による入定、いわゆる即身成仏した食行身禄の教えは、多くの庶民から信仰を集め、富士講中興の祖とされています。
「身禄行者」や「食行行者」などと呼ばれた食行身禄の墓の前には鳥居が建ち、富士山の宝永の大噴火で流出した「黒ボク」が富士山のように高く積み上げられています。その様子は、まさに富士塚です。
富士山の写しとしての富士塚を考案したのは、後の高田藤四郎と言われています。江戸・高田の水稲荷神社の境内に築造された「高田富士」が、模造富士である富士塚の始まりとされています。
標準的な富士塚では、頂上とふもとに浅間神社の祠が祀られ、富士山のように盛られた土の表面に、富士山の噴火で生成された黒ボクが使われます。さらに登山道をたどって実際に登拝ができるようになっており、その途中に石碑などが配置されます。実際の登山が難しい方でも、富士山への登拝を容易に行えるのが最大の特徴です。
さきの代参制で登拝した者が持ち帰った御札や黒ボクなどを使って、神社や寺の境内に「心富士」としての小さな富士塚が造られ、町内で富士山詣でが行われることも、江戸時代では日常的な風景だったようです。
下総国有数の富士塚「流山富士」(流山浅間神社)
流鉄流山線の終点・流山駅から徒歩三分ほどのところに、見事な富士塚があります。流山浅間神社の裏手にそびえる「流山富士」です。明治時代の中頃に築造されたとされる、高さ六メートルの富士塚は、仰ぎ見るばかりの迫力です。
この富士塚は、古来の富士山信仰の人々が登ったとされる富士北口登山道を模しているようで、険しい登山道が頂上まで続いています。途中には多数の石碑や烏帽子岩なども配置されており、本格的な富士塚です。
山頂には高さ二メートルもある大きな「富士浅間大神」が建ち、そこまでたどり着くと、視界の良い日には遠くに本物の富士山を望むことができます。
ただし、決して無理をして登山しないようにしましょう。下りは上りよりも危険が伴います。高さ六メートルの小さな富士山とはいえ、その登山道は狭く険しいので、少しでも不安を感じたら、途中で引き返すのが賢明です。
手入れの行き届いた小さな富士塚「松戸富士」(松戸神社)
松戸では、歴史ある松戸神社の境内で富士塚を目にすることができます。江戸川流域に伝わってきた富士講の一つである「丸弘講」によって築造された、高さ一メートル強の「松戸富士」です。黒ボクと自然丸石で積み上げられた小さな富士塚ですが、山頂には「富士嶽神社」と刻まれた石碑が建っており、小さな階段状の登山道で登拝も行えます。
もともとは社務所が建っているあたりに松戸富士が築造されたようですが、今は拝殿の裏に移築されています。手入れの行き届いたきれいな富士塚で、一見の価値があります。
丘のようになっている富士塚「富士嶽浅間大神」(金山神社)
金山神社は、岩山稲荷神社や神明神社などとともに、いわゆる戦国時代の根本城にあったとされています。土地開発によってその台地が断ち切られ、現在のような地形になりました。
金山神社の富士塚は、その斜面を利用して作られたものです。登山道の石碑に刻まれている「清水講」は、江戸川流域に進出した富士講の一つです。
写真の金山神社の鳥居をくぐると、すぐ左に登る道が見えますが、富士塚の登山道の入口はそのまま真っ直ぐ進んだ先にあります。登ってすぐの一合目には、妙見神社が建てられています。
登山道は、金山神社の拝殿を左手に見ながら続きます。急な坂道ではありますが、整備された石段になっているため、頂上まで登るのはそれほど大変ではありません。
登りきると、そこで「富士嶽浅間大神」と刻まれた鳥居と石碑が見られます。今なお地元の人々による富士講は続いているのです。 (かつ)
■参考図書/「富士山噴火の考古学 火山と人類の共生史」「江戸の富士塚を歩く 東京・近郊の富士塚ガイド」
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