特集記事

地図から消えた下町のランドマーク お化け煙突

2020年8月87日 第619号

今から五十六年前の一九六四年八月二十六日、東京下町のランドマークともいうべき建物の解体が始まりました。通称「お化け煙突」……。誰がいつ名付けたのかはわかりません。地図を広げてもこの煙突の痕跡は見当たりません。しかし、昭和の時代を長く過ごした者にとって、煙突の残像は今でも鮮明に瞼の裏に焼き付いているはずです。東京の城北・城東地区といった下町はもとより、松戸市南部でも高台に上がればいつでも見ることができた、まさに御神木のような存在だったのです。

■お化け煙突の正体

  読者の皆さんは、日本中の花火師たちが結集して6月1日に行われた「Cheer up! 花火プロジェクト」での花火を見ることができたでしょうか。各種メディアでも取り上げられたので、ご存知の方は多いと思います。
 6月1日20時。密にならないように日時の事前公表はせずに、163社の花火師たちが全国一斉に5分間、花火を打ち上げたこのプロジェクト。実は松戸市のお隣、柏市にある高城煙火店も参加していたのです。
 高城煙火店は明治時代後半から100年続く花火業者です。手賀沼花火大会、とりで利根川大花火、利根町民納涼花火大会にも携わり、祭礼や地域のお祭り、学園祭などの各種イベント用花火も製造。現在は4代目・5代目を含む6名の職人がいます。4代目は、競技会の伊勢神宮奉納全国花火大会の打ち上げ花火の部「佳作」他、いくつかの賞を受賞している花火師なのです。

■命名の由来

そもそも、一体なぜこの煙突のことをお化け煙突と呼んだのでしょうか。定説になっているのは、見る場所によって4本が3本に見えたり、あるいは2本や1本に重なって見えたりするからという説。これが一番分かりやすく、多くの支持を受けそうです。他説では、滅多に煙を出すことがなかったので、いつ煙を出すかわからないからお化け煙突と呼ぶようになったともいわれています。

■煙突四変化?

さっそく、変化の様子を一九五四年当時撮影された写真で見てみましょう。
◎4本揃い踏み=尾竹橋の南側から撮影された一枚のようです。往来する小船の造りが時代を感じさせます。黒々とそびえ立つ威圧感には圧倒されます。(写真1)
◎1本消えて3本に=中央の煙突が2本重なっているのがわかるでしょうか(梅田一ー二五南側から撮影・写真2)。
◎ついに2本に=町工場がひしめく中をリヤカーを引いているのはご夫婦でしょうか。旦那さんは頭にねじりハチマキ?リヤカーを後方から押す奥さんは割烹着姿です。下町の日常風景だったのかもしれません(千住桜木二ー一七北側から撮影・写真3)。
◎最後は1本に=やや太めですが、綺麗に1本に重なっています。この日は日曜日だったのでしょう。草野球を観戦する若いお父さん。乳母車が昭和の雰囲気をかきたてます。子供が飽きないように風車までついています。当時としては最先端の流行だったのかもしれません(本木一ー二七隅田川南側土手から撮影・写真4)。

いかがでしょう。見事な四変化ですね。掲載したモノクロ写真は、すべて「足立区立郷土博物館」から提供していただきました。
 鉄道の車窓から眺めるには常磐線と京成線が最適だったのではないでしょうか。地図で示したように、とりわけ常磐線の三河島から北千住を過ぎて荒川を越えるまでの区間はS字を描いてカーブしているため、煙突の数の変化を楽しむにはうってつけの路線だったはずです。

■数々の映画の舞台に

 庶民の生活を見守り続けていたお化け煙突は、数多くの映画作品にも登場した名バイプレーヤーでもありました。一九五三年の「煙突の見える場所」(田中絹代、上原謙主演)が有名ですが、記者の年代からすると、一九六三年の「いつでも夢を」(吉永小百合、橋幸夫、浜田光夫主演)は外せません。 無骨な風貌で、お世辞にも華やかとはいえない煙突が数多くの映画の舞台になったのも、当時の人々の暮らしに欠かせない空間演出の雰囲気を兼ね備えていたからにほかなりません。人々は焼け跡からの戦後復興を支えたシンボリックな力強さを4本の煙突に見出していたのでしょう。

■老兵は消え去るのみ…

しかし、永らく親しまれてきたお化け煙突も設備の老朽化と技術革新という時代の波には太刀打ちできませんでした。良質な石炭の枯渇、エネルギー効率の高い石油へのシフト…。すでに東京豊洲には総出力48・2万kwの新東京火力発電所も建設され、お化け煙突の寿命はもはや時間の問題だったのです。
 日本の工業化の一端を担ってきた千住火力発電所は、
一九六四(昭和三十九)年十一月末をもって59年にわたる歴史に幕をおろし、同時に東京のランドマークは、一九五八(昭和三十三)年に誕生した東京タワーへと引き継がれることになりました。時代はいよいよテレビ全盛の時を迎えます。

■主役は東京タワーへ

 首都高速道路や東京・新大阪間の新幹線の開通。日本は高度経済成長の階段を一気に駆け上がることになります。そして、お化け煙突の解体が始まった2ヶ月後の一九六四年の十月にはアジアで初の東京オリンピック開催。秋晴れに恵まれた開会式。真っ赤なブレザーを着た日本選手団の入場行進。国立競技場の聖火台に灯された聖火…。国民の多くがテレビの前に釘付けになって、夢と希望に満ちた日本の未来を画面の向こうに思い描いていたことでしょう。お化け煙突の消滅はまさに時代の節目、あらかじめ筋書きが用意されていたかのような見事なターニングポイントになったのです。

■生き続ける“煙突愛”

 解体された煙突はその後どうなったのでしょう。令和の時代に入っても地元に残る煙突の痕跡をネット上の情報を頼りに訪ねてみました。お化け煙突の一部はその後、発電所の西側に位置する元宿小学校の校庭に煙突を輪切りにした滑り台として寄贈されましたが、のちに小学校の合併で同校が閉鎖され、跡地に建設された帝京科学大学の脇にモニュメントとして残されています。
また、当時から地元の守護神社としてお化け煙突の建設と運営に関して奉仕してきた元宿堰稲荷(もとじゅくぜきいなり)神社の境内には木製の社標が建てられているほか、神社から東に十分ほど歩いた千住公園には写真のようなカラフルなお化け煙突が…。地元に残る“煙突愛”は健在でした。
 時代は平成から令和に移り、大正、昭和は遠い過去になりつつありますが、お化け煙突は昭和世代の記憶に残る共有財産です。常磐線沿線とも縁が深かっただけに、この一面特集で取り上げてみたいテーマでした。最後になりますが、実はこのお化け煙突から3キロも離れていない場所に、もう一つ「地図から消えた下町のランドマーク」があったことをご存知でしょうか。もし、機会に恵まれれば今回の続編で取り上げてみたいと思います。   (ルビイ)

帝京科学大学の脇に残されたモニュメント

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