徒歩で約1時間半
2022年4月8日 第659号
明治時代に日本鉄道土浦線として開通した現在の常磐線には、当初は流山を経由する計画もありました。結果としてこの計画は実現せず、数年後には馬橋駅、その後に北小金駅が開設されました。同じ年には野田線が開通しました。
これらの出来事に刺激されて誕生したのが、現在の流鉄につながる「流山軽便鉄道」です。開業は大正時代に入ってからで、馬橋と流山の間を計四駅で結びました。
【馬の鞍のような橋が由来の馬橋駅西口から】
流鉄流山線となったのは平成時代です。電化されたのは昭和時代の初期で、車両は西武鉄道西武線から譲り受けたものです。
馬橋から流山へという路線は、かの小林一茶が足しげく通った道のりを思い起こさせますが、それ以上鉄道を伸ばすには松戸が少々遠かったというのが本当のところのようです。
流鉄ウォークは、常磐線と流山線の接続する馬橋駅からスタートします。東口のほうには「馬橋」の由来とされる橋もあるので寄りたいところですが(第621号「ほんとにあるのね♪馬橋駅の『馬橋』」下QRから読めます)、西口からのほうが歩くのには適しています。
【昭和末期に移設された幸谷駅を回り込んで】
馬橋駅西口からだと、すぐ先の中道橋を渡って、ほとんど車の通らない道を歩くことができます。右側に流山線、左側に桜並木を見ながら、安心して春を楽しめます。この桜並木は、かつて多発した水害による坂川(第644号「松戸から下矢切への坂川ウォーク」下QRから読めます)の悪印象を払拭するべく植えられたものの一部です。
そのまま歩いていくと、新松戸駅前に出ます。その向かいが流山線の幸谷駅です。かつては少し先に大谷口駅があり、そのため幸谷駅はもう少し馬橋寄りでした。
【難攻不落の小金城ゆかりの小金城趾駅】
幸谷駅のすぐ先にある踏切を渡って、線路沿いに進みます。突き当りの大谷口新橋は渡らないで、その脇道を歩きましょう。道なりにそのまま進んでいくと、小金城趾駅が見えてきます。駅名の由来である小金城が近く、大谷口歴史公園でその跡を目にすることができます(第612号「松戸戦国絵巻 小金城と根木内城を本拠とした 高城氏の戦い」下QRから読めます)。
小金城趾駅と鰭ヶ崎駅の間を横切る坂川は、小さな橋で渡れます。土手で野鳥がくつろいでいる様子を見られるかもしれません。
【地名の由来ともなった東福寺が近い鰭ヶ崎駅】
鰭ヶ崎駅では、地名についての逸話が残されている東福寺に寄ってみましょう。
弘法大師が開山した「守竜山証明院東福寺」には、竜王から捧げられた竜宮の霊仏像に弘法大師が刀を加え、東福寺の本尊となる薬師如来像にしたとされます。このとき、元の海竜像の背びれの先が少しばかり残り、ここから鰭ヶ崎という地名が生まれたと伝えられています。
東福寺には、急な石段を登って入ります。本堂につながる渡り廊下の先にも石段があり、反対側に抜けられます。そのまま進み、広い通りに出たところで線路をまたげば、流山線沿いに戻れます。
【赤城から赤城台、そして平和台駅に】
平和台駅は、当初は赤城駅と呼ばれていました。
その駅名の由来と思われる赤城神社は、かの侠客・国定忠治による「赤城の山も今宵限り…」でも知られる赤城山を信仰する、群馬県の赤城神社
を本社とします。その本社から御札などが、現在の赤城神社のある小高い山に流れ着いたことから、赤城神社の分社としてまつられるようになりました。
昭和時代後半に現在の平和台駅となりますが、この駅名は近隣を開発した業者名がそのまま使われたようです。
【ゴールの流山駅は「関東の駅百選」】
さきの赤城神社のある小高い山は、洪水時には水かさの増した江戸川に流れる山のように見えたことから、かつて「流山」と呼ばれていました。現在の流山は、そこから名付けられたと言われています。
流鉄ウォークのゴールになる流山駅は、「東京近郊にありながらローカル色のある駅」という見たままの評価で「関東の駅百選」に選ばれています。
流鉄流山線は全線にわたってそのような雰囲気があり、ウォーキングを安心して楽しめます。軽食を調達できるような店はあまりありませんが、駅に近づけば自販機で水分補給を行えます。疲れたら無理せず電車を使いましょう。
(かつ)
※参考図書/「楽しい東葛地名事典」「楽しい東葛ウォーク事典」
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