特集記事

芭蕉から元夢、そして
馬橋の立砂から一茶へとつながる、松戸市域の俳諧

2023年6月23日 第688号

五・七・五の十七音を基本とする俳句を含む、日本語で書かれた文学的な作品を「俳諧」と総称します。江戸時代前期の俳諧師・松尾芭蕉によって、日常的な世界を詠みながらも、高い芸術性を備える句風が確立され、現代に至っています。のちに「俳聖」と呼ばれるほど世界的に高く評価された松尾芭蕉は、松戸市域の俳諧にも影響を与えており、馬橋で油屋を営んでいた大川立砂を通じて、江戸時代を代表する俳人・小林一茶の大成にも貢献しました。

「おくのほそ道」で知られる松尾芭蕉

金谷寺で見られる芭蕉の句碑

 俳諧で認められるまでの芭蕉のことはよくわかっていませんが、松尾家の経済状況は良いとはいえず、高等教育を受ける機会に恵まれていなかったと考えられています。代表作の「おくのほそ道」にも多くの誤字などがあったことからも、それが感じられます。しかし、さまざまな本から良し悪しを判断できる天才を有しており、優れた作品をいくつも生み出しました。その卓抜した才能は世界的にも高く評価され、「俳聖」と呼ばれるようになりました。
 芭蕉は「旅の詩人」でもありました。四十一歳で郷里へ向かった八か月におよぶ旅の行程や体験をつづった「野ざらし紀行」を皮切りに、死没する五十一歳までの十年間のうち、半分近くの年月を旅で過ごしました。

蘇羽鷹神社で見られる
芭蕉の句碑

 芭蕉の生涯における最大の旅でつづられたのが、有名な「おくのほそ道」です。このときには、「芭蕉庵」と称して住んでいた家を人に譲って出立しているので、場合によっては江戸に戻らないつもりだったのかもしれません。
 美濃国大垣(現在の岐阜県大垣市)に到着したところで「おくのほそ道」の旅は終わっていますが、それからしばらく芭蕉は近畿地方に滞在しています。その後、江戸に戻り、門人の用意した新しい「芭蕉庵」で暮らします。
 芭蕉の最後の旅は、最初と同じく、郷里の伊賀上野(現在の三重県伊賀市)へ向かうものでした。

芭蕉の親友・山口素堂の葛飾派であった森田元夢
(本土寺の「翁の碑」は元夢の門人による)

本土寺で見られる
「翁(松尾芭蕉)の碑」

 その年の九月、芭蕉は病に冒され、同年の十月十二日に五十一歳で没します。その葬儀には、芭蕉の教えを受けた人など、三百名以上が駆けつけたとされます。
 以来、芭蕉をしのぶ俳人たちは、この十月十二日を「芭蕉忌」「桃青忌」「時雨(しぐれ)忌」「翁忌」などと呼んで、追憶の句を献じるようになりました。「おくのほそ道」の旅によって全国各地に芭蕉の門人がいたので、江戸時代にはさまざまな地の寺で盛んに追善法要が営まれました。それらは菩提寺とも言えるものとなり、芭蕉の位牌の安置や、追善句碑の建立などが行われました。
 小金の本土寺で見られる「翁の碑」もその一つです。建立したのは、今日庵森田元夢の門人五名です。元夢は、山口素堂を祖とする俳諧の一派「葛飾派」の一員でした。

妙典寺で見られる
芭蕉の句碑

 芭蕉と門人ではなく親友として交流した山口素堂は、芭蕉が江戸に出て来たときに知り合っています。漢学を学び、一時は士官もしていた素堂にとっても、芭蕉の俳人としての才には強く惹かれるものがあったのでしょう。のちに本所深川から房総方面へと活動の範囲を広げていく「葛飾派」を育て上げています。芭蕉が江戸俳壇に躍り出るきっかけとなった「百韻一巻」の興行にも加わっています。
 その山口素堂を祖とする・飾派であり、「翁の碑」の台石に元夢の門人として名を連ねる「籐風庵可長」は、かつての小金の水戸街道沿いに店を構えていた「飴屋」の主人です。「方閑斎一堂」は当時の大谷口村の住人であり、「仙松斎一鄒」は本土寺の三十九世日浄上人の俳号です。
 同じく名を連ねる門人の一人で、古ヶ崎に住んでいたと思われる「松朧庵探翠」は、小金の妙典寺にも芭蕉句碑を建てています。

元夢が立砂(大川平右衛門)に俳諧を指導

松戸市消防団日暮照応センター
23分団そばにある一茶の句碑

 本土寺にある「翁の碑」の台石には、建立された日として「文化元子十月建之(文化元年十月これを建てる)」と刻まれています。同月の十二日は芭蕉の忌日なので、「翁の碑」の建立された文化元年十月十二日には、芭蕉をしのぶ俳人たちが本土寺に集まったことでしょう。
 その中に、芭蕉とともに江戸時代を代表する俳人と言われる小林一茶もいたと考えられています。一茶の自筆句日記「文化句帖」の文化元年十月十二日の項には、「十二日 晴 小金 翁会 布川ニ入」と記されているからです。「本土寺」の文字は見当たりませんが、同寺の「翁の碑」の台石に刻まれている日付と一致するので、おそらく同日の本土寺で催された「翁会(おきなえ)」には、一茶も参加していたのでしょう。
 今日庵森田元夢は、馬橋の柏日庵立砂を通じた、一茶の師でもありました。師である元夢を通じて、立砂と知り合ったという説もありますが、いずれにしても立砂は、一茶にとって、同じ師を持つ同門の大先輩にあたります。
 柏日庵立砂こと、大川平右衛門は、馬橋で油商を営んでいました。元夢のいた布川は水田地帯であり、裏作としてナタネ油の生産も盛んでした。元夢と立砂は、その取引を通じて若い頃に知り合い、師弟の関係となったのではないかとも考えられています。
 その立砂の家には、弥太郎という名の奉公人がいたという話が伝えられています。弥太郎というのは、一茶の本名でもあることから、立砂が彼の大成に一役買ったのではないかと考えられ、他に有力な一茶居住地説がないこともあって、著名な井上ひさしや藤沢周平らにより、その話をもとにした戯曲や小説などが創作されています。

立砂との交流が一茶を物心両面から支える
(一茶の馬橋居住説)

一茶居住説もある馬橋

 実際、一茶は、松戸を含む、いわゆる東・地域をよく歩き、かつての小金原を題材にした句をいくつも残しています。江戸時代までの小金原は、広大な野馬の放牧場である小金牧のことであり、大半はそこで目にした馬についての句です。子和清水公園で見られる句碑はその一つです。
 一茶が東葛地域で多くの時を過ごしたのは、馬橋には油屋の大川立砂、流山には醸造家の秋元双樹、利根川の対岸の布川には船問屋の古田月船、守谷には西林寺の住職・鶴老など、一茶の才能を高く評価する支援者が少なくなかったからです。

子和清水で見られる一茶の句碑
一茶が足繁く通った水戸街道
立砂の居宅跡

 一茶は、立砂の師でもある元夢や、さらにその師である素丸にも俳句を学んでいました。特に同門の大先輩だった立砂については、「翁」と敬う句で詠むほど信頼しており、親子のような関係だったともされます。立砂のいた馬橋への訪問回数は、房総各地のどこよりも多く、このことも「一茶の馬橋居住説」のよりどころとなっています。
 立砂の死後も、跡を継いだ「斗囿」が一茶を手厚く遇したこともあって、大川家と一茶の親しい関係は続きました。馬橋の萬満寺で行われた立砂の十三回忌には、その年忌に合わせて、一茶が十三の追悼句を詠んでいます。  (かつ)

■参考図書「一茶漂泊」「小林一茶」「房総の芭蕉句碑 下総篇」「新編旧水戸街道繁盛記」「松戸史談」「芭蕉=二つの顔 俗人と俳聖と」

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