特集記事

千葉氏の末裔であり、松戸で育った剣術家「千葉周作」

2023年12月1日 第699号

実戦的な北辰一刀流の開祖であり、「赤胴鈴之助」など数々の作品において優れた剣師として描かれたことで広く知られる千葉周作は、松戸の浅利道場で本格的に剣術を学びました。理想とする剣術を追い求めるあまり、浅利道場を破門されることになりますが、ついには北辰一刀流を編み出し、のちに構えた「玄武館」は江戸三大道場と称されるほどの隆盛を誇りました。千葉周作は、千葉介常胤に連なる千葉氏の末裔とされます。家に代々伝わる「北辰流」は、その千葉介常胤を開祖とするものであり、北辰一刀流の基になったとも言われます。

父に連れられ松戸にやってきた十五歳の千葉周作

 千葉周作は、寛政地震のあった年に生まれています。仙台沖で発生した江戸中期のこの大地震で、仙台藩の領内では二千戸近くが住めない状態となり、余震も一年近く続いたと伝えられています。
 同年に宮城県気仙沼市で生まれたとされる千葉周作は、一家で被災したのかもしれません。地震による難を免れたとしても、暮らしづらい状況に陥ったのかもしれません。周作が五歳のときに、父である千葉忠左衛門に連れられて、兄弟とともに生まれ育った地を離れています。
 千葉忠左衛門が頼ったのは、宮城県栗原郡荒谷村の千葉吉之丞(ちばきちのじょう)でした。同じ千葉氏の末裔であるということ以外には、二人の関係がどのようなものであったのかはよくわかっていませんが、父の千葉忠左衛門、兄の又右衛門、弟の定吉とともに、周作が十五歳となるまで荒谷村で過ごしました。このときに、千葉吉之丞や、その子・千葉幸右衛門の使う「北辰夢想流」との出会いがあり、のちに周作が編み出す「北辰一刀流」にも影響を与えたとも言われます。
 荒谷村での周作たちの暮らしはとても厳しいものだったようです。それほど遠くないところにある鳥海山では噴火活動が激しくなり、その数年後にはその周辺で象潟地震も起きています。そのような災害や貧困などを苦にして、郷里を捨てる人が少なくなかったようです。

「弘法大師霊場」のあることでも知られる「宝光院」

若き日の千葉周作は、宝光院の門前に住み、
浅利道場で剣の修業に励んだ

2004年に取り壊された松戸宿本陣の大黒柱による標柱「千葉周作ー修行之地」

 周作の父・千葉忠左衛門が、好景気で湧く江戸行きを考えたのは無理のないことでした。
 松戸はその途上の宿場でしたが、江戸時代の松戸宿は、江戸の東の玄関口としてとても栄えていました。
 江戸に入るには、江戸川を渡ったところに設けられていた金町松戸関所を通らなければなりませんでしたが、日本との通商を求めて外国からの船が頻繁に来航していた時期であり、おそらく関所も張り詰めた空気に包まれていたでしょうから、それまでよりも取り調べが厳しかったのでしょう。千葉忠左衛門の一家は、許可なく故郷を離れたふしがあるので、関所を無事に通過するのは難しかったのかもしれません。

詳名の梅牛山宝光院林泉寺にちなんで梅の木と牛が弘法大師坐像と共にある

 周作の父・千葉忠左衛門は、当面は松戸で暮らすことを決め、浦山寿貞を名乗って馬医者を生業とします。そして、小野派一刀流の剣法の達人として名高い、松戸の浅利又七郎の道場に、周作を通わせます。
 この浅利道場での修行は、周作の剣の才能を開花させます。わずか数年で小野派一刀流の極意を会得してしまいます。この非凡の才に驚いた浅利又七郎は、師であり、江戸で道場を開いていた中西忠兵衛のもとへと周作を送り出しました。

江戸の中西道場で免許皆伝となった周作は、
松戸に戻り浅利道場で教える

①木々の途切れるところに向かった突き当り右手に周作父の墓がある

 小野派一刀流中西派である中西忠兵衛の道場は、下谷(台東区上野)にありました。
 そこには、「中西道場の三羽烏」と呼ばれるほどの強者がいました。
 一人は、のちに「天真一刀流(天真伝一刀流)」の祖となる寺田宗有です。宗有は、竹刀稽古を好まず、間合いや駆け引きを会得するための、木刀による組太刀で稽古を行いました。相手の打ち込もうとするところをことごとく読んでしまうほどの宗有の組太刀を見て、周作はその重要性を悟ったとされます。
 もう一人は、のちに天真一刀流二代目となる白井亨です。竹刀も用いての後進の指導に定評があり、のちに周作もその一端を「剣術初心稽古心得」に記しています。
 最後の一人が、師範代も務めるほどの実力者であった高柳又四郎です。相手の仕掛けをかわして勝つ「音無しの剣」で広く知られていました。
 周作は、数年で彼ら「中西道場の三羽烏」と五分に稽古できるようになりました。

独自の剣術を教えた周作は破門になり、
「北辰一刀流」を名乗って諸国で武者修行する

江戸の中西道場でも免許皆伝を得た周作は、最初の師である浅利又七郎の娘をめとり、松戸に戻って浅利道場で教えるようになります。
 このときすでに周作の剣は、小野派一刀流の枠に収まらなくなっていました。理想とする一刀流を追い求めるあまり、組太刀などの改良を、義父となった浅利又七郎に進言するも、受け入れられることはありませんでした。
 やむを得ず、浅利又七郎は周作夫妻を離縁させます。周作の技量と将来性を考えての苦渋の決断でした。
 千葉周作は、晴れて「北辰一刀流」を開創します。「北辰」は、神道における「北辰妙見尊星王(ほくしんみょうけんそんじょうおう)」から名付けられたと言われます。同神は、仏教においては、千葉氏の守護神でもある「妙見菩薩」です。
 その北辰一刀流を携えて、周作は武者修行の旅に出ます。

②千葉周作の父・浦山寿貞の墓(側に「千葉忠左衛門」の名も)
③「浅利又七郎の供養碑」左側に浅利の文字がなんとか読み取れる

日本橋品川町の道場を経て、
神田お玉ヶ池稲荷の近くに「玄武館」を開く

 各地での試合で名をあげた周作は、江戸に戻って北辰一刀流の道場「玄武館」を日本橋に開設します。
 理にかなう周作の指導法は広く支持され、入門者は増え続けました。日本橋の道場は数年で手狭になり、神田お玉ヶ池に道場を移します。新しい「玄武館」は、当時の将軍家師範であった柳生道場と同じくらいの広さとなりました。諸大名からも門人を委託されるようになり、遠方からの修行者も受け入れられるように、二階建ての寄宿舎も用意されました。人気は衰えることなく、のちには、「江戸三大道場」とも称されるようになります。
 当然ながら、千葉周作を召し抱えたいという諸藩も数え切れませんでした。固辞し続けた周作でしたが、御三家の一つである水戸藩の、水戸烈公として知られる徳川斉昭からの誘いを断りきれなくなり、剣術師範を引き受けます。

坂本龍馬が入門した「小千葉道場」は、周作の弟・定吉の構えたもの

④尼港事件で殉職した水上少佐(松戸出身)の墓もある

 幕末の志士として知られる坂本龍馬も、江戸遊学の際に北辰一刀流を学んでいますが、実は千葉周作の玄武館ではありません。身分制度の厳しい時代であったため、当時は土佐藩の下士(郷士)だった龍馬は、上級武士の所属する玄武館で稽古することができなかったのです。
 玄武館と同じ場所には、下級武士も学べる、いわゆる「小千葉道場」があり、龍馬はそこで北辰一刀流を習得します。この小千葉道場は、周作の弟である千葉定吉が開いたものです。
 定吉は、兄の周作
と行動をともにしていて、玄武館の創設と運営にも関わっていました。玄武館の運営が軌道に乗ったところで、分館とも言える「小千葉道場」を構えたのでした。
 周作の兄の又右衛門も剣術で身を立てています。岡部藩の須藤家の養子となり、同藩の剣術師範となりました。のちに塚越又右衛門を名乗ります。  (かつ)

■参考図書/「千葉一族入門事典」「松戸史談」「イラストまつど物語」

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