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関所をひかえた宿駅として、たいそう栄えた「松戸宿」

2023年10月6日 第695号

関ヶ原の戦いで覇権を握った徳川家康は、江戸の日本橋を起点とした五街道(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)を整備し、幕府の直轄としました。各街道の要所には関所を置いて通行の管理が行われ、江戸を防衛する手段として利用しました。その五街道に次いで整備され、五街道と同様に道中奉行の管轄に置かれたのが、松戸を経由して江戸に向かう水戸街道です。当初の松戸はいわゆる寒村でしたが、江戸幕府による水戸街道の整備や、参勤交代制度で江戸と領地を往復する大名の利用などによって、関所をひかえた「松戸宿」として栄えるようになりました。

江戸期の「金町・松戸の渡し」を降りたところに「是より御料松戸宿」

 松戸宿は、現在の松戸駅西口側に中心街がありました。松戸駅西口から商店街を抜けて旧水戸街道に出て左方向、坂川に架かる「春雨橋」から、角町のY字路までが、江戸時代に栄えた「松戸宿」の中心街でした。
 角町のY字路の少し手前に松龍寺の参道がありますが、その向かいの江戸川方面がかつての「下横町」で、江戸川を渡るための渡船場が設置されていました。
 渡船場へは、もう少し角町のY字路の方へ進んだところ、現在の角町のバス停のあたりから江戸川方向に伸びるやや広い道から行きます。その先に、「是より御料松戸宿」の碑が建てられており、江戸川を渡るための渡船場が付近にあったことを示しています。

この松龍寺の参道の向かいの江戸川方面が
かつての「下横町」
江戸期の「金町・松戸の渡し」を降りたところに
「是より御料松戸宿」

「平潟遊郭」の経営者が寄進した天水桶などが残る「平潟神社」

平潟神社の境内に残る妓楼名の刻まれた天水桶

 その「金町・松戸の渡し」が設置される以前の江戸川は、古ヶ崎と樋野口のあたりで大きく湾曲していました。そこは流れも緩やかで、土砂が積もって砂地となり、いわゆる干潟を作りました。干潟は船を停めて荷を扱うのに都合よく、問屋や船頭のための小屋や船宿が用意されるようになり、近辺の渡しからの旅人も多くなって、船宿や旅籠屋の数が、松戸宿の中心街の三倍近くありました。
 江戸川を開削して直線にする工事が実施されると、平潟河岸は消滅し、旅籠屋は遊女屋となっていきました。近隣の住人なども遊ぶようになって、平潟一帯は広く知られる遊郭街となりました。
 今は面影もありませんが、近くの平潟神社の境内には、遊郭各楼の名の刻まれた奉納石造物や天水桶などが残されています。

「平潟」の遊女が祈願すると全快したという伝説の残る「池田弁財天」

「平潟」の遊女が祈願すると全快したという伝説の残る「池田弁財天」

 旅人の気晴らしのために楽器を奏でたり、歌ったり舞ったり、ときには枕席にもはべる遊女は、古代から存在しました。江戸時代の初期までは、そうした優雅なもてなしもあったようですが、以降は娼婦と同義になりました。
 遊女のほとんどは、困窮した小作人や漁師から身売りされた娘でした。年季もあってそれが明ければ廃業できることにはなっていましたが、二十代で病死する遊女が多かったようです。
 そんな遊女の心の拠り所となっていたのが、池田弁財天でした。功徳の範囲が広く、庶民的色彩が濃厚だった弁財天は、美貌の神としても理想的な女性像でした。弁財天には、悪行を重ねる五頭龍に、仏法に帰依することを条件にして身を許したという伝承もあり、その比類なき抱擁力に、身の上を重ねたところもあったのかもしれません。

川向うの金町側に置かれた「金町松戸関所」(金町関所跡之記)

川向うの金町側に置かれた「金町松戸関所」(金町関所跡之記)

 平潟遊郭の発展には、金町松戸関所で一般人の夜間の通行が禁止されていたことがあります。午後六時頃には江戸川を渡ることができなくなったので、間に合わなかった旅人は一夜を過ごす場所が必要だったのです。
 金町松戸関所は、川向うの金町側に設けられました。金町関所跡之記が、その付近に関所があったことを伝えています。
 金町松戸関所は、当時の水戸街道を塞ぐように設置されていました。松戸宿から渡ってきた者は、渡船場からそのまま関所の建物に入り、厳重な調べを受けてから、江戸に向かう水戸街道を進むことになります。江戸から来た場合には、関所の取り調べを受けると、その先の木戸を抜けた渡船場から松戸宿に渡ることができるようになっていました。

「金町・松戸の渡し」より3キロほど下流にある「矢切(やきり)の渡し」では関所を通らずに往来することができた

「金町・松戸の渡し」より3㎞ほど下流にある「矢切(やきり)の渡し」では関所を通らずに往来することができた

 近隣の村人の場合は、昼夜を問わずに関所を通ることができました。昔からの渡し船を使うことも許されていて、今も営業する「矢切(やきり)の渡し」を含む六つの渡し場の利用が認められていました。
 本来は関所を通らなければならない一般人がその渡し船を使った場合には、「関所破り」として厳しく罰せられました。関所以外の場所から江戸川を渡ろうとした女連れの武士が捕まり、磔の刑に処されたという話も伝わっています。

徳川家光によって制度化された「参勤交代」もあり、
人馬が不足するほどに(「旧松戸宿本陣跡地」)

2004年に解体された「旧松戸宿本陣跡地」

 徳川家光が制度化した参勤交代により、大名は江戸に出仕するべく、一年おきに領地と江戸を往復することになりました。水戸街道を通って江戸との往復を行う藩も少なくなく、その数は二十以上もありました。江戸の東の玄関口としての松戸宿は重要性を増し、松戸宿をさらに発展させました。松戸宿に用意された本陣は、十数藩の大名が宿泊などに利用しました。
 初代将軍・徳川家康を東照大権現として祀る日光東照宮に参拝する、いわゆる日光参りが盛んになってからは、松戸宿や小金宿を北上して日光街道に合流する脇街道としての利用も増えて、荷物などの運搬に使われる人馬が足りなくなり、遠方からも臨時人足を集めざるをえなくなるほどになりました。

明治の終わりになって、ようやく葛飾橋が架かる

鉄橋に架け替えられた「葛飾橋」
すぐ隣に見えるのは「葛飾大橋」

 江戸時代、江戸への軍事的な侵入を難しくするため、幕府は川に橋を架けませんでした。参勤交代で大名行列が江戸と領地を往復するときや、将軍が鹿狩りで小金などに出かけるときには、船を並べて臨時の橋を作り、それを使って多数の人馬が川を渡っていました。

 明治になって関所が廃止されると、軍の施設があった下流の市川では早々に橋が架かりましたが、東京と千葉にまたがるなどの事情があったせいか、明治の終わり頃まで松戸と金町の間に橋は架かりませんでした。
 関所のあったところに架けられた当時の葛飾橋は木造でした。関東大震災後に鉄橋として架け替えられ、古い木造の橋は松戸の陸軍工兵学校の訓練を兼ねて取り壊されました。昭和の後半には新葛飾橋、その数年後には葛飾飾大橋も架かり、増え続ける交通量に対応しました。 (かつ)

■参考図書/「松戸風土記」「松戸史談」「東・観光歴史事典」「イラストまつど物語」「江戸庶民の旅」「歴史人」「松戸今昔物語」「弁才天信仰と俗信」

昭和の後半に新設された「新葛飾橋」
増え続ける交通量に対応するべく、葛飾橋のすぐ隣に「葛飾大橋」も架かる

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