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今も大切にされている稲荷神社から、江戸川流域の新田開発を知る

2025年3月7日 第729号

 江戸川流域には、新田開発にともなって建立された稲荷神社が、当時の村ごとに点在しています。江戸時代、新田開発は食料増産を目的に行われ、農民たちは治水工事や土木作業に尽力しました。その際、稲荷神社は農業の神として信仰され、土地の安定や豊作を願う拠り所となりました。現在も地域の祭りや行事を通じて信仰が受け継がれ、住民の心の支えとなっています。稲荷神社を巡ることで、新田開発の歴史と地域の営みの深い結びつきを知ることができるでしょう。

 稲荷神は、そもそも農業神です。いわゆる「商業」という産業が成り立つはるか以前から存在していました。農業が営まれ始めた弥生時代頃に、農作物の実りを祈る神が生まれ、それが豊作を祈願する「稲荷神」の原型だと考えられています。
 現在では、稲作は比較的安定した産業と見られがちですが、その成立期における水田農業は想像以上に不安定なものでした。自然条件に大きく左右されるため、人の力ではどうにもできず、超自然的な存在である神に祈り願うしかありませんでした。「稲荷」という名称は、稲(いね)+成(なり)を語源とすることからもわかるように、稲作の始まりとともに原初的な稲荷神が生まれたと考えられます。神社としての形式が整えられるようになるのは、ずっと後のことです。
 松戸市内の江戸川左岸は、江戸時代に開発された広大な水田地帯で、当時は「下谷三千石の穀倉」とも呼ばれるほどでした。ここではもち米やうるち米が多く収穫され、それらはみりんや白玉、餅、あられなどの原料となりました。さらに、江戸では寿司米としても人気を博したそうです。
 しかし、そうした収穫が安定するまでは、暴風雨のたびに見舞われる風水害との苦闘の日々が続きました。

大谷口新田稲荷神社(大谷口新田)

 地球の気候が寒冷化し、広大な地域が氷に覆われた長期間の時代を「氷河期」と呼びます。氷河期は、地球の歴史の中で何度も繰り返されてきた大規模な気候変動であり、最新の氷期は約一万年前に終わり、現在は間氷期にあたります。
 氷河期には海面が低かったものの、気候が温暖化するにつれて急激に上昇し、縄文時代には現在の海抜よりも約三メートル高かったと推測されています。関東地方では、この縄文海進によって海水が内陸奥深くまで侵入し、現在とは大きく異なる海岸線が形成されました。
 縄文時代の松戸地域には「古松戸湾」とも呼ばれる入江ができており、それは干潟が広がる遠浅の海だったと考えられています。そこでは漁労活動が盛んに行われており、その証拠として数多くの貝塚が松戸で発見されています。これらの貝塚からは鯨などの動物の骨や貝殻、土器、石器など、食生活や住居に関するさまざまな痕跡が見つかっています。
 その後、海面の緩やかな昇降運動が繰り返され、古松戸湾は徐々に縮小していきました。台地からは大小の河川が流れ込み、それらの繰り返される氾濫によって、広大な湿地帯へと変化していったのです。
 江戸時代に新田開発が進められたのは、こうした低地です。この地域が入植地として選ばれたのは、水源に近く水の確保が容易であったこと、平坦な地形が広がり大規模な水田の造成が可能であったこと、そして河川から運ばれた土砂の堆積によって肥沃な土壌が形成され、稲作に適した環境が整っていたことなどが主な理由としてあげられます。

宗派の垣根を超えて、村人同士の協力を必要とした当時の大谷口新田村
香取稲荷神社(伝兵衛新田)

 江戸時代に新田開発が進められた江戸川流域一帯は、戦国時代には高城氏が治める地でした。松戸や流山を含む広大な領地を所有していた高城氏は、大谷口台地に小金城を築きました。この地が河川や低地帯に囲まれた自然の要害であったことが、その理由とされています。
 しかし、難攻不落と評された小金城も、北条氏の敗北とともに焼き落ちることになります。当時の小金城主・高城胤則は、北条氏に加勢するため、多くの兵を率いて小田原城に詰めていました。その間、小金城は城主不在となり、わずかな兵のみで守るしかなく、豊臣秀吉の家臣・浅野長政に包囲されることとなり、最終的には明け渡されました。
 北条氏とともに滅んだ高城氏とその家臣たちは、武士の身分を捨てて土着しました。その後の江戸川流域の新田開発においては、彼らの結束が重要な役割を果たしたと伝えられています。
 高城氏の旧家臣である戸張伝兵衛が中心となって開発した新田は「伝兵衛新田」と呼ばれました。この新田の開発は、大洪水などの困難に見舞われながらも進められたとされています。その伝兵衛新田の鎮守社が「香取稲荷神社」です。
 また、九郎左衛門新田や、現在も地名として残る主水新田も、高城氏の旧家臣が開墾指導者だったのではないかと推測されています。

主水新田稲荷神社(主水新田)

 江戸川流域は、水田に必要な水源を確保するには便利な地域でしたが、江戸川や坂川からの流水、さらには高台から流れ込む雨水の処理に苦慮しました。その結果、まともに収穫できたのは三年に一度とも伝えられています。この地域が戦国時代まで人が住まず、耕地もない湿地帯であったのは、こうした環境が理由でした。
 特に深刻だったのは排水不良の問題です。当時、坂川は主要な排水路でしたが、その能力は不十分でした。当時の坂川は現在よりも西側を流れ、北から南へと続いていました。しかし、その勾配が緩やかであったため、江戸川の水位が上がると、江戸川に流れるはずの水が逆流して坂川へと戻ってしまったのです。この問題を解決するため、江戸川への排水口を延長する案が検討されましたが、上流域と下流域の利害対立などがあって、実現には約二百年もの歳月を要しました。最終的に水害が解消されたのは、蒸気機関を利用した大規模排水設備が整備された明治時代になってからです。
 そんな状況が続く中、農民らは、ひたすら豊作と家内安全を稲荷神社に祈願し、その信仰を心の支えとしました。今も、旧新田村一帯には、いくつもの稲荷神社があり、村の守護神として大切に祀られています。

九郎左衛門新田稲荷神社(九郎左衛門新田)
稲荷神社(七右衛門新田)
真言宗と日蓮宗の相互支援を表した題目塔

 ちなみに、現在の栄町は、坂川の「サカ」と江戸川の「エ」から「栄(サカエ)」と名付けられました。もともとは、高城氏の旧家臣である戸張伝兵衛が中心となって開発されたことから「伝兵衛新田」と呼ばれていました。
 また、かつて「九郎左衛門新田」と呼ばれていた場所は、「九」の字にちなんで「旭町」と名付けられました。
 現在も地名として残る「七右衛門新田」については、次の二つの説があります。一つは、七人の右衛門が開墾を始めたという説、もう一つは流山の豪農であった七右衛門が指導したという説です。
 「三村新田」は、三つの小さな新田が合わさってできたことに由来して名付けられたようです。
 「大谷口新田」は、大谷口村が中心となって開墾された土地です。この地域はかつての小金城のお膝元であり、その城主であった高城氏の旧家臣たちが多く関わっていたようです。土地の所有者や税額を記録するために作成された当時の水帳(検地帳)には、「ゆわ見」「左京」「雅楽之助」など、高城氏の家臣だったと思われる人たちの名が見られます。(かつ)

三村稲荷神社(三村新田)

■参考図書/「お稲荷さんの正体」「松戸史談」「干潟のゆくえ」「イラストまつど物語」「川と向き合う江戸時代」「わがまちブック 松戸」「東葛流山研究」

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