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松戸周辺を広く治めていた高城胤吉ゆかりの城と寺社を歩く

2024年1月26日 第702号

いわゆる戦国時代、それまでの千葉氏に代わって、松戸市を含む東葛地方を広く治めていたのが、高城氏です。最盛期は高城胤吉(たかぎたねよし)の代で、大谷口に築いた小金城を本拠として、二度にわたる国府台合戦でも活躍しました。今回は、その足跡を、北小金駅からたどってみます。思うよりも起伏のある道のりです。

「慶林寺」は、高城胤吉の後を追うように亡くなった妻・月庵尼を弔うために建立された、かつての桂林寺

 高城氏は、千葉氏の家老だった原氏に仕えていたとされます。その後、頭角を現した高城胤忠(たかぎたねただ)が勢力を拡大し、松戸周辺を広く治めるようになります。
 高城氏は、下総においての一大勢力となりますが、千葉氏との関係は続きます。高城胤吉の代には、当時の当主であった千葉勝胤(ちばかつたね)の娘を正室に迎えて、千葉氏との関係を深めます。次の千葉氏当主となった勝胤の嫡男・昌胤(まさたね)にとっては妹婿であり、ともに国府台合戦でも戦いました。
 北小金駅の北口、本土寺へ向かう参道のある側に下りて左方向へ、線路沿いに少し歩くと、右手に慶林寺への参道が見えます。この慶林寺に、高城胤吉の妻であり、千葉昌胤の妹でもあった、月庵尼(月庵桂林尼)の墓所があります。

「慶林寺」は、高城胤吉の後を追うように亡くなった妻・月庵尼を弔うために建立された、かつての桂林寺
高城胤吉の後を追うように亡くなった妻・月庵桂林尼の墓(慶林寺)

高城胤吉が没すると、彼女は直ちに髪を下ろし、月庵尼と号して、鹿島神社のほとりの庵で、仏に仕えるようになりました。けれども、夫であった胤吉の後を追うように、翌月に亡くなります。その庵のあったところに、子の胤辰(たねとき)が建立したのが、現在の「慶林寺」の前身である桂林寺です。
 月庵桂林尼の墓は、本堂に向かって左手奥の階段を登った墓地にあります。案内板があるので、すぐに見つかります。現存する墓石は徳川吉宗(とくがわよしむね)の治世に、高城氏の末裔である清胤(きよたね)が建てたものです。

高城胤忠が招致した菩提寺の「広徳寺」に高城家墓石があり、高城胤吉の名が刻まれている

先代の高城胤忠が招致した菩提寺の「広徳寺」も中金杉に
高城家墓石には胤忠と胤吉、胤廣の名が刻まれている(広徳寺)

高城胤吉の墓所は、少し離れた中金杉の広徳寺にあります。高木家歴代のものであり、墓石には胤忠や胤廣の名も刻まれています。
 慶林寺の参道の途中、慶林寺からなら右手に分かれ道があり、それを進めば広徳寺に向かうことができます。
 広徳寺は、高城家の菩提寺です。当初は栗ヶ沢にあり、高城胤忠が先祖の菩提のために招致しました。

小金城支城・前ヶ崎城の城主であったとされる田島刑部少輔時定之墓もある(広徳寺)

 小金城を本拠とするにあたって、高城胤吉が現在の中金杉に移しました。
 広徳寺の正面階段を登るとすぐに、高城氏の墓所を案内する立て札があります。それに従って左に曲がれば、高台の上の墓所を見つけられます。
 墓所から降りてすぐの左方向には、小金城の支城・前ヶ崎城の城主であったとされる田島刑部少輔時定の墓もあります。高城胤吉の代ではありませんが、高城氏につくして討ち死にした忠臣です。

千葉氏に連なる高城胤吉は、国府台合戦で活躍し、「小金城」で松戸周辺を広く治めるようになる

広徳寺から新松戸の方へ向かうと、高城胤吉の築いた小金城があったところ、現在の大谷口歴史公園にたどり着きます。
 城跡ではありますが、戦国時代の中頃のものであり、地形を利用した砦のような山城だったため、多くの人が思い描くような痕跡はありません。ただ、人の手が加えられた土塁や空堀などが残っており、周辺の地勢も加味して見ると、守りやすく攻めにくい堅固な城であったことがうかがえます。
 現在残っているのは一部で、宅地開発でほとんどが失われているのが実情です。かつては広大だった台地には、本城や中城、馬屋敷などの城跡遺構があったようです。宅地造成に際しての事前発掘調査では、柵や塀の跡などとともに、かなり規模の大きな建物の痕跡が見つかっています。
 国府台合戦には、この小金城から出陣しており、そこで手柄を立てた高城胤吉は、その恩賞により松戸周辺を広く治めるようになります。

高城胤吉は「小金城」で松戸周辺を広く治める(大谷口歴史公園)

小金城を本拠にするにともない、祈願所であった「大勝院」を根木内から大谷口へ移す

祈願所であった「大勝院」

 小金城を本拠にする前は、高城胤吉は根木内に城を構えていました。「大勝院」は、もともとはその根木内城の近くにあった寺院です。小金城の築城にともなって、現在の大谷口に移されました。高城氏の勢力拡大とともに、祈願所として厚く信仰されるようになったようです。
 当時、戦場に臨む者は、神仏の加護を求めました。死に直面した者たちの心性を考慮することなく軍事を遂行することはできず、軍勢を率いる戦国大名の信仰は重要な意味を持ちました。
 現在の大勝院は、大谷口歴史公園に接するような位置にあります。当時は、小金城の一部であったようです。

「大谷口神明神社」は、小金城内鎮守のために祀られていた

 大勝院の近くにある「大谷口神明神社」も、かつて小金城内にありました。築城された地を守護するため、城内にあった馬屋敷の場所に創建されました。
 小金城が落ちてからは、残された高城氏の家臣が帰農して興した大谷口村の鎮守のための神社に転じました。
 現在の大谷口神明神社は、小金城跡の宅地開発にともなって建て替えられたものです。もともとは、もっと東の方にあったようです。

かつては小金城城内鎮守のために祀られていた「大谷口神明神社」

「東漸寺」の第七世住職だった了学上人は、高城胤吉の三男で、二代将軍の徳川秀忠の導師も勤めた

高城氏と密接だった東漸寺

 大谷口神明神社から「東漸寺」へは、起伏のある道のりになります。常磐線をくぐった先の東漸寺へは、狭い石段を登って入れます。
 この東漸寺も、高城氏の尽力により現在の地に移されています。もともとは根木内に創建されま
したが、中興の祖とされる第五世行誉吟公上人の代にその移動が行われ、大殿などがすべて完備されたといわれます。それから、修行僧が集まって修錬をつむ大叢林(だいそうりん)になったと伝えられています。
 高城胤吉との関わりは深く、東漸寺の第七世了学上人は、胤吉の三男です。幼い頃から東漸寺で出家した胤吉の三男は、若い頃から英才ぶりを発揮し、四十歳で東漸寺第七世となりました。関東の叢林の間でも名僧として知られ、徳川家康の受戒の師ともなりました。二代将軍の秀忠の葬儀には大導師も務めました。
東漸寺は、関東十八檀林の一つとなり、徳川家の養護を受けるとともに、関東屈指の修業の道場となったとされます。
 当時は修行僧のための学寮が八棟もあったようですが、現在の東漸寺にはその跡は残っていません。寺子屋として利用された後、黄金小学校(現在の小金小学校)となりました。
 明治新政府の神道国教化政策による仏教排斥運動、いわゆる廃仏毀釈や、太平洋戦争などで境内が荒廃した時代もありましたが、歴代住職の尽力でその修復も行われ、第五十八世鏡誉上人の頃に現在の姿となりました。
(かつ)

■参考図書/「わがまちブック松戸」「写真でみる自然と歴史をたどる散歩道」「東葛の中世城郭」「東葛飾の歴史地理」「戦国と宗教」「小金地域の歴史」

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